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花束より巨大なクレープ
埼玉新都市交通のニューシャトルという路線に、羽貫という駅があります。3月のとある雨の日に、わたしは所用があって羽貫駅に行きました。到着して周囲を見渡すと、駅前にあるクレープ店に行列ができていたので、何の気無しに並ぶことにしました。本稿では、そこでの忘れえない体験について記します。
待ち時間
クレープ店は名を「クリスティーヌ」と言います。(営業妨害にはならないはず……)プレハブ小屋程度の大きさの店に、10人程度の人が並んでいました。わたしが行ったのは雨の日でしたが、それでもこの人数なので、相当な人気店であることが伺えます。一方で、人気ゆえの苦労もさせられているようでして、待ち行列から見える位置に、「当店に駐車場はありません、車を停めないでください」「一列になって近隣の方へのご配慮を」などのたくさんの注意書きが貼られていました。人気店は決して楽な商売ではありませんね。雨で凍えながら待っていると、クレープを受け取る人が、全員大量のクレープを手に出ていくのが見えました。後ろの人を待たせておきながら、何個も注文するなんてなんとけしからんことか。わたしは怒りと寒さに震えながら自分の順番を待ちました。ざっと30分くらいは待ったように思います。
自分の番が近づき、わたしはひとつの真実に気がつきました。大量のクレープと思っていたのは、一つのクレープだったのです。一つのクレープがあまりにも巨大で、まるで花束のようだったのです。遠目からはクレープの群としか思えないほどで、これをわたしは大量のクレープを注文しているものと勘違いしていたのでした。しかも、サイズが選べるというわけでもなく、調子に乗った結果巨大なクレープを頼んでいるということではありません。デフォルトが巨大なのです。震えが寒さと恐怖に変わりました。
受領
サイズを選ぶことはできませんが、クリスティーヌさんのいいところはカスタム性にあると思いました。豊富な種類のクレープがあり、しかも多彩な組み合わせができるので、何度通っても新鮮な組み合わせを試すことができます。ただ、わたしが行った時は夕方ということもあり、かなりの種類が売り切れてしまっていました。結果、わたしはバナナと生クリームとラムレーズンの組み合わせのクレープを発注しました。その結果受領したのが以下の写真のものです。
デカすぎんだろ……(画像略)
店主は両手でクレープをわたしに授けたあと、サランラップを上にかけてくれました。最初これは雨が降っているがゆえの配慮と思ったのですが、この包装がのちにわたしを救うことになります。
実食
雨が降っていることもあり、なかなか食べる場所がありません。わたしは羽貫駅のホームに移動して食べることにしました。周囲の人間の奇異の視線に耐えながらサランラップの包装を外すと、生クリームの塊と対面することができます。まずどうやってかぶりついていいのかもわかりません。どうがんばっても鼻の頭に生クリームが付いてしまうではないか、どうすればいいのだ、と思ってしまいます。ええいままよ、と、勢いよくかぶりついたところ、鼻の頭だけでなく、頬にまでクリームがつきました。そのくらいのサイズ感だと思っていただければと思います。
行列ができているだけのことがあり、味はおいしいです。バナナが贅沢に使われていて、クリームも甘くておいしいです。(そりゃあそうだろうという感想ですが)ただ、食べ進めていくと、20%ほど食べた状態で、重大な問題に直面します。口の中が甘くなりすぎて、これ以上の甘いものを受け付けなくなってきたのです。羽貫駅のホームには自動販売機も(たしか)ありません。缶コーヒーなどの苦い液体がなければ、これ以上食べ進めることはできないのです。
わたしは仕方なく店主にもらったサランラップでクレープを包み、ニューシャトルに乗り込みました。カバンにしまうことはできなかったので、手に持った状態で、です。伊奈中央駅で乗ってきた人がサランラップで包まれたクレープを手に持つわたしを見て二度見していましたが、そんなことを気にしてはいられません。これはクリスティーヌの店主にもらった重い愛の花束なのです。何も恥じることはありません。何にかはわからないですが、何かを祈るような気持ちで乗車していると、ほどなくして大宮駅につきました。
大宮駅でタリーズの無糖コーヒーを購入して飲みました。この時のタリーズとクレープのマリアージュは、筆舌に尽くし難いほどの快楽をもたらしたことを覚えています。砂漠で飲む水、という陳腐な例えではとても表しきれません。大宮駅のベンチに座りながら、わたしはコーヒーとクレープを交互に口に放り込んで行きました。これで残り70%も何とかなる、そう信じて疑いませんでした。
しかし、残り25%まで食べ進めた時、ある異変に気がつきました。胃の中はまだ容量があるのに、これ以上受け付けられない状態になったのです。口の中は大丈夫なのに、胃の中に放り込むことが困難な状態になったのです。まるで船酔いになった時にような気分の悪さです。わたしはここで生クリームの恐ろしさを知りました。
生クリームは、質量がさほど大きくないので、胃の中の入った時の容積というか、重量感は大きくありません。しかし、胃にかかる負担、脂の量としては、グラムあたりがとてつもないものになっているのです。たとえばラーメン二郎などはもやしと麺を食べることになりますが、摂取する脂はまとわりついているもののみで、胃の容積の大半は固形物が占めることになります。それに対して、生クリームの塊を食べている状態は、胃の容積の大半を油が占めているという状況になるわけです。胃が感じている「重量感」と、胃が感じている「負荷」に、ここまで大きなギャップが発生するというのは、本当に不思議な体験でした。わたしにとってこれまで、満腹とは「胃が内容物で満たされる」という状態でした。今回、わたしは胃が内容物で満たされていないにもかかわらず、「満腹だ」と思ったのです。食事にも「密度」のような概念があって、食べるものによって胃への負荷が違う……ということは当然のことなのですが、そんな当然のことを強烈に認識することができる体験になりました。
わたしは25%をなくなくサランラップでまた包み、今度はカバンに入れて帰路につきました。あとで気づきましたが持ち手部分にもクリームがついていたので、カバンの中が少しクリームになってしまいました。
体験
以上、羽貫駅にて、ただ甘いものを食べた、ということ以上の経験を積むことができました。これだけの思いをしたのですが、この文章を書きながらもうあのクレープがまた食べたくて仕方がなくなってきています。店主からすると、こんなに巨大なクレープにしない方が安上がりですし、時間もかからず提供できるため行列の害も少なくなります。それでも花束より巨大なクレープを提供してくれるのは、ひとえに店主の愛に他ならないと思うのです。ということで、羽貫駅に用のある方は、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。ちなみに、駅前のラーメン屋も美味しいそうですが、ハシゴするのはあきらめた方がよさそうです。
おまけ
ニューシャトルのマスコットキャラクターですかね?かわいいですね。