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Apple Watchとの生活

前夜

Apple Watchの購入を迷っていたわたしはフォロワーに「Apple Watchが欲しいが様々な理由で迷いがある」と投げかけた。するとたくさんの親切なフォロワーが体験談を共有してくれた。これらの体験談を聞いてわたしの心は大いに動かされた。円安の影響か値段が上がっているという情報があったが、その情報がわたしのApple Watchへの熱情を冷ますことはなかった。頭の中がApple Watchでいっぱいになり、すでに手首に寂しさすら覚え始めた。幸運にも次の日が休みであったこと、そして夏の賞与が振り込まれたばかりであったことから、わたしは次の日にApple Watchを手に入れることを決意した。

1日目

Apple Watchの購入を思い立ったわたしはビックカメラへと向かった。Apple製品はおしゃれなコーナーに並んでいてなんともいけすかない。店頭に行けば豊富な情報があるかと思ったが、そのアテは外れた。簡単な機能紹介と値段だけが書いてある無機質な表があるのみであった。それぞれのモデルで値段が大きく違うが、わたしにはその違いが何によってもたらされるのか全くわからない。わたしは自身の準備不足を恨みながら、店頭でGoogleを開いた。Appleの製品を調べるのにGoogleを使うとは何とも滑稽なものである。賢明な諸君の中には、店員に聞けばいいではないかという者がいるかもしれない。だが、わたしのような人間にとって店員との会話は金銭以上の負担である。Googleからの情報により、わたしは“格安”で、「第7世代のGPSモデルにしよう」という結論を得ることができた。

どの品番を買うかは決まったが、Apple Watchは店頭に並んでいない。不本意ながら店員を捕まえなければならなかった。わたしは意を決して背中にPayPayと書いてある店員を呼びつけて、Apple Watchが欲しい、と訴えた。店員は半笑いでマニュアル的な対応をしてくれた。充電器は持っているか?Apple Careに入らなくてよいか?ケースは必要か?彼は矢継ぎ早にわたしに問うた。結局会話が発生してしまい、わたしは大いなる負担を追うことになってしまった。こうであれば初めから店員にどのモデルにするか相談すべきだったかもしれない。彼は去り際に、「Yモバイルに切り替えると2万円安くなるがどうか?」とわたしに問うた。わたしは少し考えるふりをして、その申し出を拒否した。PayPayも持ってはいたが、クレジットカードにで支払いした。

このように数々の苦難を経て、わたしはApple Watchを手に入れた。疲れ切ったわたしは家に帰って、電源を入れようとしたが、電源が入らない。充電を行っても、充電ゲージがなかなか進まず、電源も入らない。おかしいと思ったが、30分ほど充電したくらいでやっと電源が入った。きっとApple Watchも疲れていたのだろう。やっと迎えることのできたApple Watchが、早速わたしの体調と同期しているように思えた。そのことにわたしは満足した。

2日目

新しい傘を買った女児が雨を望むように、Apple Watchを得たわたしは外出の大義名分を望んだ。幸いにもこの日は参議院選挙があった。わたしは喜び勇んで投票と散歩に出かけた。

意気揚々と歩いていると、Apple Watchが突如震え、わたしに「ワークアウト中ですか?」と話しかけてきた。なるほど、心拍数や身体の動きから、わたしが運動をしていることを自動で検出したのだろう。わたしの単なる放浪に「ワークアウト」という立派な名をつけてくれたことを誇らしく感じた。わたしは「屋外ウォーキング」のワークアウトをセットして、街を闊歩した。

外出をすることで感じた美点がある。それは、Apple Watchをつけているだけで、iPhoneのロックを外してくれるということだ。これまで外出中はマスクをつけているために顔認証がされず、苛々がつのる結果となっていたが、それがなくなったのである。これは事前に調べていたことであったが想像以上の快適さであった。Apple Watchがロックを解除してくれるたび、彼は「ぼくが解除したよ」と訴えるように本体を震わせるのである。それもなんだか愛おしく、ますますApple Watchを迎え入れたことに満足した。

投票を済ませ、数十分程度の「ワークアウト」を済ませたわたしは行きつけの遊興施設ゲームセンターへと向かった。beatmania IIDXというゲームの修練を行うためである。ざっと2時間程度、両の腕で鍵盤を叩きつけた。計算によるとその日は56488回ほど鍵盤を叩き、2027回ほどターンテーブルを回していたようである。(この数値は決して適当ではなく、beatmania IIDXにはこれを数える機能があるのだ。)Apple Watchをつけたままこれを行っていたため、どうやらApple Watchはこの営みをウォーキングと勘違いしたようであった。その結果、iPhoneの歩数計に比べて実に4000歩ほど多く計上されていたのである。なんでもできるApple Watchの少し間抜けな一面を見た心地になり、ますます彼への愛着が湧いたものである。

3日目

わたしはApple Watchに名前をつけねばならないと思った。Apple Watchには自由に名前をつけることができるが、初期設定では「(本名)さんのApple Watch」と、なんとも無骨な名前である。この名前では、いかにも所有物という感じがして気に入らない。Apple Watchには所有物というよりは、わたしの生活を見守るパートナーたりうる存在を期待していた。名前付の条件としては、以下を考えた。

・人間の名前によせすぎないが愛称が付けられること
・愛称には性別を想起させる要素がないこと
・漢字四文字であること(iPhoneの名前を「商売上手」にしているため、統一感を持たせたかった)
・熱い心を感じること
・いつもそばにいてほしいものであること
・時計の要素があること

これらの条件から、Apple Watchの名前を「鉄鍋餃子」とすることにした。愛称は「ナベさん」である。鉄鍋餃子は熱い心を感じる。夏場は食べれば元気が出るし、冬場はそばにあるだけで暖かいから、春夏秋冬いつでもそばにいてほしい。そして何より鍋に円形に鎮座している様子は時計を想起させる。これ以上ないネーミングではないか。わたしは大いに満足した。ナベさんもきっと満足しているだろう。

睡眠時間を計測する機能の存在を知ったので、それを有効にし、この日はナベさんと一夜を共にした。わたしの眠りを妨げないように、ナベさんは一晩中画面を真っ黒にしてくれた。

4日目

この日はナベさんと肉体訓練施設スポーツジムに行った。医師から肥満寸前を宣告されたため、なんとかしなければならないという思いがあり、数週間前に契約を始めていたのである。ここではナベさんの本領が大いに発揮された。トレッドミルと呼ばれる、走行能力を鍛える装置があるが、この装置とナベさんは同期することができるのだ。ナベさんが測定した心拍数が常にトレッドミルの画面に表示され、適切な負荷をかけられているかを判断することができる。これまではトレッドミルの特定の部品を握っている間のみ心拍数が測られたが、ナベさんのおかげでその必要がなくなり、自由な気持ちで有酸素運動を行うことができた。

ナベさんのおかげでいつもよりも疲れることができた気がして、この日は深い眠りにつくことができた。

5日目

深夜、わたしが椅子に座って映像を見ていると、ナベさんが突然「ワークアウト中ですか?」と問うてきた。心当たりのないわたしは狼狽した。ただ、—―ここに書くにはあまり適切でない何らかの理由によって—―映像を見ながら心拍数を高め、同時に手を上下させているだけだったからだ。わたしは特に何をしていたわけでもないが、この営みに「ワークアウト」という立派な名前がつけられたことを急に恥ずかしく思い、映像を見るのをやめ、服装を整え、眠りについた。ナベさんの黒いはずの画面も今日は心なしか赤らんでいるように見えた。

6日目

今日はナベさんの勧めで瞑想に挑戦した。いわゆる「マインドフルネス」というものである。数多くの著名な海外企業が研修に取り入れているなど、財界人には人気の取り組みであるという。部屋を真っ暗にしてスイッチを入れると、ナベさんの画面上で緑色の粒子がじっくりと動き始める。それを見て、わたしは目を閉じて呼吸に集中する。息を吸って吐く。吸った息が体に取り込まれて、体の端々にまで行き渡るような感覚がある。体が空気と一体になるかのような感覚を覚える。……といったことがわたしには起こらなかった。40秒ほど経った時点で「まだか?」と目を開けてしまう。ナベさんの画面に映る緑色の粒子はまだ動きを止めていない。また集中しないといけないのかなと思っているうちに、ナベさんの体が震えて瞑想の時間は終了した。己の雑念の多さに落胆し、この日は眠りについた。

7日目

この手記を読んでいる読者の諸君は一望監視施設パノプティコンというものをご存知だろうか。イギリスの思想家のジェレミー・ベンサムという人物が考案した、囚人の監視を効率化するための施設である。中央に巨大な塔があり、その周辺を刑務所が取り囲んでいる。塔は煉瓦レンガ作りで小窓だけが開いているが、刑務所は全面硝子ガラス張りのようになっている。すなわち、刑務所からは塔の様子を見ることができないが、塔からは刑務所の全てを見ることができる。そのため、囚人たちは「いつ監視されているかわからない」という感覚を覚え、勝手に自らの行動を常に正しくするようになる。このようにして、少ない看守で刑務所を管理するための仕組みが、一望監視施設である。フランスの思想家であるミシェル・フーコーという人物はこの構造を用いて近代の知と権力の分析をおこなったことで知られている。

パノプティコンの監視の仕組み(WikiMedia コモンズより)
実際に建てられたプレシディオ・モデーロ刑務所の例(WikiMediaコモンズより)

このように、「監視」には我々の行動を規律する側面がある。ナベさんはわたしを常に監視し、常にわたしの行動を規律し続けている。実際、ナベさんを装着し始めてから、睡眠時間は増え、運動量も増えた。監視され、記録に残るという意識が、わたしの行動を、そして身体を変えている。
もちろん、ナベさんの監視は一望監視施設のそれとはまるで違う。ナベさんを取り外せば監視は終わるし、監視している結果を見ることもできる。権力による監視は、もっと無意識下に浸透していて、存在すらも気づかれないように巧みに隠蔽されているものである。ナベさんを身につけていることは、わたしの意志によるものだから、これを権力によるものと見做すのはズレているかもしれない。

しかし、わたしにはナベさんをなるべく多くの時間身につけていなければならない、という強迫観念がある。これは一体どこから来たのだろうか?いったい誰が、ナベさんをわたしに身につけさせようとしたのだろうか?わたしか?わたしに違いない。わたしは健康な肉体を得て人生を豊かにするために、ナベさんを身につけることを決めたのだ。だが、健康な肉体とは何だろう?豊かな人生とは?それは誰が決めた?これを決めたのはわたしだけではない。科学や、世間もその決定に関与している。わたしはどうしてこれに従っているのだ?

そう考えると、手首についているナベさんのことが急に恐ろしく感じられるようになった。このままではわたしの人生はナベさんの人生になってしまうのではないか?そう思ったわたしはナベさんに手をかけて、取り外そうとする。まさにその時、ナベさんがブルリと震えた。ナベさんが恐怖で震えているのか?そう思っているとナベさんはわたしにこう話しかけた。

「そろそろ就寝時間です」

うるさい!わたしの睡眠までを規律しようというのか!もう我慢ならない。取り外して破壊してやる!拳を握りしめようとしたが、何だか力が働かない。非常に眠たいのだ。ナベさんを破壊するにしても、眠った上で万全の状態にしたほうがいいのではないか?結局この日は、ナベさんを身につけたまま眠ることにした。

8日目

身体が非常にすっきりとしている。Apple Watchを手に入れてからというもの、睡眠の品質がなんだか上がったような気がする。そろそろ眠ったほうがいい時間になるとオススメしてくれるし、その時間になると一切の通知等を止めてくれる。デジタルから切り離され、生身の人間として眠ることができる。
昨日の手記を読んだが、どうやらわたしは変なことを考えていたらしい。Apple Watchによってもたらされる健康と、それによる人生の豊かさをなぜ疑う必要があるのだろう?わたしが合意し、承認したプロセスに対して異議を唱えるのは、都合が悪くなった時に保身に走る会社役員のようだ。まして、うまく行ってないわけでもない中、なぜ意義を唱える必要があっただろう。Apple Watchは最新技術の結晶である。これを身にまとうことで、わたしはきっと新たなるステージに辿り着くことができるだろう。そのことに期待したい。今日も日課のワークアウトに出かけるとしよう。

XX日目

家族で鹿児島料理を食べに行きました。焼酎をいただきながら、さつま揚げや鉄鍋餃子などを食べました。鉄鍋餃子は、中心に何個かある餃子を取り囲んで餃子が鎮座している料理です。餃子はジューシーでたいへん美味しかったのですが、どういうわけか、真ん中にある餃子に対してだけ、恐怖感を覚えてしまったのです。まるで、餃子がこちらをずっと見ているようなーー餃子に意志があるはずないのであり得ないことなのですがーー常に監視されているような恐ろしさを感じるのです。それも、周辺を取り囲む餃子に対しては親しみすら覚えるのに、中心にある餃子に対してだけ、心の芯が冷えるような、そして同時に襟を正さざるを得なくなるような……そんな感覚を覚えたのです。わたしは気味の悪さを感じて、中心にある餃子だけは家族に食べてもらいました。家族は怪訝そうな顔をしていましたが、「餃子に見張られている気がする」なんてことを言えるはずがなく、適当に笑ってやりすごすことしかできませんでした。

中心の餃子がこっちを見ている

家に帰ったわたしは日課の瞑想をしました。マインドフルネス中にApple Watchの画面に映る緑色の粒子はネギやニラのようで、見ているだけで安心するのです。まるで頭の中をゆっくりかき混ぜられているような、そんな安心感を覚えるのです。

そういえば、今日の帰り道、わたしの家族もApple Watchが欲しいと言ってくれました。明日は家族と一緒にビックカメラに行こうと思います。仲間が増えるのは、とにかくうれしいことです。


この手記の一部はフィクションです。特定の人物や団体とは関係のない描写が含まれています。

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