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全裸になるということ
少し前に、北海道の路上に全裸の男性が現れたというニュースがありました。その男性はマスクをつけていました。マスクをつけるというひとつまみの理性が、全裸男性の狂気を引き立てたように思います。
いわゆる露出狂の人々は、加害性を重視しているというか、異性に自分の裸体を見せつけて、異性の心に何らかの傷をつけることを目的にしています。これは到底許されない性犯罪です。ただ、加害性を重視する人の場合、トレンチコートを羽織って必要な時だけ曝け出すというのが一般的(犯罪に一般的も何もないのですが)と思われるので、上記の人はおそらく加害性を求めてやっていたのではないように思います。したがって、全裸になるという行為そのものに、性犯罪とは別の次元での意味が存在するのだと思います。
翻って、わたしは他人に裸体を晒すのがあまり好きではないタイプの人間です。10代後半以降は海で上裸になったことがないです。公衆浴場ではなんだかこそこそとした動きになります。それは端的にいうと、自分の肉体に自信がないから、ということになるのですが、何だかそれだけではないような気がしています。仮に筋トレをして筋骨隆々の姿になっても、超すごいエステに行って全身脱毛をしても、超すごいエステで美肌を手に入れても、それでもなお自分の裸体を他人に見せることには抵抗がありそうなのです。
人間は衣服を着ることによって、社会性を身に着けているように思います。スーツを着ることによってフォーマルに仕事をしているということを表明したり、制服を身につけることで特定の組織に所属していることを表明したりします。人間が衣服を脱ぐということは、その社会性から切り離された、生身の自分だけとなる、ということと思います。おそらく自分は、その生身の自分を直視されることに対する恥ずかしさが強いのだと思っています。生身の自分には、生まれつきのものも、生活の積み重ねも、全てが現れてきます。腹部の体脂肪や、性器の状態、体毛の状態だったり、なんらかの手術痕や傷跡だったり、すべてが包み隠すことのできない状態でさらけ出されています。服を身に着ける場合はオシャレをして自らを演出したり、ボーダー服などの無難な格好をすることで存在を薄めたりすることができますが、全裸の場合はごまかしの効かない、ありのままの自分として存在するしかないということになります。
そう考えると、全裸になるという行為には、自らから社会性というしがらみをそぎ落とす行為である、という側面があるように思います。社会が嫌になった人間のとる行動として、全裸になるという行為は、自らの社会性の象徴をかなぐり捨てるということになるので、象徴的なものだな、と思います。なお、公衆浴場のようなところは、社会的な空間でありながら全裸でなければ入ることができない、という意味で、なんとも特殊な空間だと思います。が、公衆浴場の場合は全裸が正装であり、全裸こそが社会的な服装である、といえるので、公衆浴場での全裸と、それ以外の場所での全裸は意味合いがはっきりと変わってくるように思います。公共の場所で全裸になるということこそが、社会性を破棄するということになるのです。もちろん、この行為は露出狂の性犯罪者と区別ができないので、犯罪として罰せられることになるのですが……。
わたしは社会の中で生きているという感覚が強く、なおかつ社会によってかろうじて生かされている、という感覚が強いので、社会性を捨てるということに対する恐怖感が強いです。できるだけ社会性や理性にしがみついて生きていたい、と思っています。ですが、なんとなくの想像として、こういう社会性や理性にすがっている人間が、いざ社会や、理性に裏切られたときに、どういう行動をとるだろうか?ということをつい考えてしまいます。信頼が強ければ強いほど、裏切られた時の手のひらの返しっぷりが大きくなるからです。パウロという人物はものすごくキリスト教徒を迫害していましたが、復活したキリストを見て以来ものすごく敬虔なキリスト教徒になったといいます。このように、社会を信頼するエネルギーが大きければ大きいほど、裏切られたときに反発するエネルギーも大きくなるのだと思います。
冒頭で紹介した北海道の全裸男性は、マスクを身に着けるという社会性を身にまとっています。マスクをしないとウィルスに感染するかもしれないという恐怖を感じられるほどには、強い理性を持っている人だということになります。この男性がどうして全裸で路上に出たのか、本当のところはわかりません。ですが、その男性の姿はひょっとすると、将来、社会に裏切られて絶望したときのわたしたちの姿に似ているのかもしれません。