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左右がわからなかった話
ものごとの基本を理解していない状態を「右も左もわからない」とよく言います。個人的にはこれにあまり納得がいっていません。右と左という概念は、言語で説明するには高度な概念であると思うからです。
わたしは大学生になるまで右と左がわかりませんでした。今でもとっさに判断を求められると間違えることがあります。これが「左右盲」というものだとTwitterの人に教えてもらうまでは、恥ずかしいこととして人に言うこともできませんでした。本稿では、右と左が分からなくなったきっかけとして覚えている話と、逆にそれをわずかながら克服できたきっかけについて記します。同じ悩みを抱えている人の参考になれば幸いです。なるのか……?
分からなくなったきっかけ
幼稚園の時に、どういう場面だったか覚えていないのですが、園児同士が向かい合って立つ、という時がありました。そのとき、先生が「右手を挙げてね」と言ったのです。
わたしはたしかその時も右がどっちなのかよくわかっていなかったので、周囲を見ながら適当にあげようとしました。そこでわたしは向かいの園児と同じ方の手を挙げたのです。向かい側の子が挙げた右手は、わたしからみると左手です。そのため、わたしは左手をあげたのです。見事に二択を外してしまいました。
向かいの子に違うよと言われたのか、隣の子に違うよと言われたのか、先生に違うよと言われたのかは覚えていません。いずれにせよ、間違えたことを覚えています。慌てて周囲を見ると、自分の隣にいる園児たちは、向かい側にいる園児たちと反対の方の手を挙げて、それでよしとされています。これを見て当時のわたしはひどく混乱しました。
畳みかけるように先生が言いました。「このように、右と左というのは、向かい合っている人から見ると反対になるんですよ。」そもそも右と左という概念がわかっていない自分にとって、この説明がさらに混乱を生みました。こうして、「右と左というのに正しい答えはない」という謎の結論に着地しました。右と左が、水平方向の何かしらの向きを表す概念だということはうっすらと理解しつつも、どちらが右なのか左なのか、それはどの目線から見て言うものなのか、考えられなくなってしまいました。
右左がわからない生活
それから、右と左という概念は、学校では家庭で教えているだろうからということで教えられず、家庭でも学校で当然やっているだろうからということで教えられず、そして右と左という概念を理解していないことがあまりにも恥ずかしいという思いで隠していたこともあり、右と左が分からないまま過ごす日々を送りました。本棚で本を探していて、「もっと右」と言われるたびに確率2分の1の賭けが始まりました。穴の空いている方角をしゃべるタイプの視力検査では、空いている方向が分かってもそれが右なのか左なのかが分からなかったので、指で指していました。修学旅行のバスツアーでは、「右手をご覧ください」と言われた時に隣に座っている子と目が合いました。ただ、困るのはそういう時だけで、なんだかんだでのらりくらりとかわすことができていました。
克服できた体験
そんな右左が分からない日々に、光明がさすきっかけがありました。それが車の運転免許を取りに行った時です。車の運転……わたしはめちゃくちゃ下手だったのですが……そこでは右折と左折という概念が出てきます。この2つでは安全確認の手順が全く違いますし、何より難易度が違いました。「右折」と聞くと「右直事故のリスクがあって難しいやつだ!」とわかり、そのビジュアルがありありと(教官に怒られたトラウマとともに)蘇るのです。ここでやっと、右と左と言われた時に、車に乗っている時のことを思い浮かべることで、どちらが右なのかわかるようになったのです。
この時にやっと気づいたのです。「そういえば、自分は鉛筆や箸を持つときはずっと右側の手で持っていたなあ、右利きってそういうことなのか〜……」ということに……。ただ、このことに気づいても、利き手の感覚と右と左の連想とあまり結び付かず、結局車の運転時の光景を思い浮かべてからでないとうまく右左がわからない状態は続いてしまいました。「右と左という概念に苦手意識がある」という思考の癖によって、毎回「どっちだっけ?」と思ってしまう呪いを受けている状態なのだと思っています。「『看』の字の横棒って3本だっけ4本だっけ?」「『眠』の字は日へんだっけ目へんだっけ?」というレベルの「迷い」が、右と左というクリティカルな概念に訪れる、という感覚に近いと思っています。漢字の場合はPCで変換すれば答えがでますが、右左の場合は参考にすべきものが自分の感覚しかありません。「北を上とした場合の東」とか言われても、いやどっちだよってなりますし……。
さらなる克服
ここ数か月は、克服度合いがさらに増してきていることに気が付きました。それは、わたしがやっている二つの活動が影響しています。まず第1に、ピアノの演奏です。ピアノは、「低い音が出る方」が左ということで明確に決まっています。また、右利きである私にとっては、左手の演奏をスムーズにすることが非常に難しく、左手がネックになることが多いです。レッスンの際にも左手と右手に関する言及がされ、どちらが右なのか、どちらが左なのか、という感覚と言語が結びつく体験ができます。「左手、左手~~~」と、左手への呪詛の念が強まるにつれて、呪詛を強く抱く方が左であるという感覚が肌身で分かるようになってきたのです。もしもっと幼いころからピアノの演奏をしていたら、きっと左右盲で悩むことなんてなかっただろうな、と思います。
もう一つは、beatmania IIDXのDP(ダブルプレー)です。beatmania IIDXとは、7つの鍵盤と1つのターンテーブルを捌く音楽ゲームです。鍵盤とターンテーブルのセットは筐体に2つあり、2人で同時にプレーできるようになっているのですが、ダブルプレーというモードでは、2人分の鍵盤を1人でプレーすることができます。以下は、beatmaniaをやってない人にはわかりにくいかもしれないのですが、このダブルプレーをやっていて、右と左の違いを大きく感じた出来事があるので、記します。
突撃!ガラスのニーソ姫!(DPA)という譜面があるのですが、以下のような譜面構成があります。
この部分では、右手でやったことを、左手で繰り返す、ということを行います。一度やってみるとわかるのですが、利き手じゃない方の手で同じ動きをするのは非常に非常に難しいです。わたしはこの曲で、自分の右手と左手の実力差を歴然と感じ、自分が右利きであることを、強く意識づけられることになったのです。(この体験が、ピアノを習い始める前だった、というのもあります)
上記の例では、右と左で同じものが降ってきますが、ダブルプレーでは片方の手に負荷の偏りがあることも少なくありません。そのため、左右の譜面を入れ替えたり、左右反転させた譜面にしたり、というオプション設定が重要な意味を持ちます。攻略サイトを見るなどの研究を重ねるにつれて、自分が無意識のうちに右と左の概念を平然と使いこなせていることに気が付いたのです。攻略サイトに、「Golden Cross(DPA)は左鏡右乱がおすすめだよ!」と書いてあったら、何の迷いもなく、1P側にミラーオプションをつけ、2P側にランダムオプションをつけることができるようになったのです。
まとめ
以上、左右の違いがわからないことに苦しんでいたことと、それを克服するに至った体験について記しました。運転免許、ピアノ、IIDXのDPの3つに共通するのは、いずれも「必要に駆られたから」理解できたということではないかな、と思っています。思えば、大学生までの自分は、右と左を理解していなければならないという場面に、日常的に繰り返し遭遇することがなかったのではないかと思います。「鉛筆を持っている手が右手である」ということを理解していなくても文字は書けましたし、「お茶碗を持つ手が左手である」ということを理解していなくても食事はできました。視力検査や観光バスなど、たまにゲリラ的に訪れる右左必要イベントに苦しめられていただけだったのだと思っています。そして、必要に駆られて繰り返し「訓練」することによって、何とか身に着けることができつつある、ということなのだと思います。克服できている以上、わたしは「左右盲」というより、ただ「左右という概念の認識をサボったまましばらく生きていた人」というべきなのかもしれません。
最後になりますが、右利き目線で書いていたので、左利きの人にとっては相当気持ち悪い文章だったろうな、と思います。まだそういう配慮をしながら分が書けるほど右左の概念がしみわたってないので、そこはどうか許してください。