鈍感による罪悪と敏感による損失
この世界の人間たちを敏感な人と鈍感な人で二分するとき、わたしは鈍感な人だと明白に断言できます。とくに生活面では怠惰そのものです。部屋は散らかっているし、身だしなみも偏差値38くらいの自覚があります。おそらくこれらのことによって、気づかないところで損をしているんだろうなという想像だけがあります。言うなれば、毎日通っているお店に本当はポイントカードがあるんだろうと薄々気づきながらも、店員にそれを尋ねることはしないような、そんな日々を過ごしています。それに対して絶望感とか焦燥感とか自責の念のようなネガティブな感情を抱いているかというと全くなく、それがいいことなのか悪いことなのかがいまだにわからずにいます。
なぜ生活面において怠惰になってしまうのか、その理由を考えてみると「めんどくさいから」というよりは「気にならないから」ということが大きいです。「めんどくさい」という発想は、「本来やらなきゃいけないことだがやる労力が惜しい」というものですが、「やらなきゃいけないこと」という感覚がないのです。自室の床にコウモリの死骸が落ちていても気にならないし、道ゆく人に「この人の髪の毛ボサボサだなあ寝起きなのかな」と思われても気にならないです。なぜ気にならないのか?と言われてもこれに答えることは難しいです。もっとも考えられるのは、「それを他者によって強烈に植えつけられる機会がなかったから」ではないかと思います。どうしても振り向いて欲しい恋人がいたり、身だしなみがダメなせいで何者かから不当な扱いを受けることになったり、などのことがあると強烈に「ちゃんとしなければ」という意識が植えつけられるのだと思います。その機会がなかった(と言い切っていいか微妙ですが)のは不幸なことであり、幸福なことでもあると思います。
身だしなみの話だけではただの怠惰で終わってしまいますが、敏感と鈍感の差が如実に出る場面として大きなものがもう一つあります。それは人間関係において不当な扱いを受けた時の反応についてです。わたし自身はここも鈍感だと思っています。鈍感な人は、「人間関係において不当な扱いを受けた」と感じるセンサーが弱い人です。あくまで「弱い」というだけなので、高純度の言葉の暴力とか搾取には反応しますが、そうだと判断するまでの閾値をなかなか越えない、ということです。
敏感な人と鈍感な人のどちらが罪悪か、というとこれが極めて難しいです。鈍感な人は鈍感ゆえに知らず知らずのうちに敏感な人の尊厳を傷つけている可能性があります。わたしの高校の同級生に「寝癖がついていて髪型がセットされていない人を見ると殺意が沸く」と言っている人がいました。その理由は深く聞かなかったのでなぜなのかはわかっていませんが、おそらくその人がわたしに殺意を抱いたことはあるのだろうなと思うので、その人にとってわたしは罪悪であると言えます。このように、狙っているわけではないのに不快な思いをさせてしまうことが敏感な人と鈍感な人の間では起こることが予想されます。これが鈍感ゆえの罪悪です。しかしこれをあらゆる場面において罪と言い切っていいかは微妙なところです。鈍感な人にはなんらの加害意識もないことに、そこに周囲から勝手に罪悪の概念を足してしまう、というある種の暴力性を伴うものだからです。この暴力性は、敏感ゆえの罪悪にカウントされうるものだと思います。自分の価値基準になるように世界をコントロールしようとする営みだからです。これはマナー講師を想起するとわかりやすいでしょう。「了解です」というと相手に失礼だから「承知しました」と言うようにしましょう、という風説を流布することによって、「了解ですと言ってきたということはこいつは俺に失礼なことをしているな?」と思われるようになります。「失礼」というマーケットを新たに作り上げることによって、人々の生活に変な足枷を作ろうとする営みになりかねないのです。じゃあこれをあらゆる場面において罪悪と言い切っていいかというとこれも微妙で、マジョリティとマイノリティの関係にこれを落とし込むと、「少数派のお前たちがその過敏さを飲み込む“べき”なんじゃないのか」ということの論理補強にされてしまうかもしれません。「気になってしまう側が常に我慢すべき」という結論を下すのもそれはそれで恐ろしい結末を招いてしまいそうです。したがって、敏感な人の行為を罪悪と断ずるのは難しいと言えます。
敏感な人と鈍感な人のどっちが損かというと、これも極めて難しいです。鈍感な人の損は、本稿の冒頭で述べたとおりで、知らない間にポイントを失ってしまうという機会損失的な損です。敏感な人の損としては、まず「気になることがある」ということによって精神にストレスがかかってしまうことが挙げられます。鈍感な人に比べて敏感な人の方が、人間関係において不当な扱いを受けることが多いのは間違いないことです。なぜなら、そう感じる範囲が大きいからです。また、敏感な人は、鈍感な人に自分の嫌なことを気づいてもらうためにそれを立証しなければならないという要素もあります。立証にかかる心理的コストと、我慢することによる心理的コストを天秤にかけて、より少ない方の行動を取ることになると思います。いずれにしてもコストがかかるという意味では一緒ですから、敏感であるという時点でだいぶ損なのです。そして、敏感な人の損としては、機会損失もあります。自分の気になったことを愚痴という形で周囲に吐き出すと、「ああ、この人はこんなことを気にする人なのね」と思われてしまうことがあります。それによって好感度を下げてしまったり、場合によっては距離をとる人が出てくるのです。「価値観の合わない人間なんてこっちから願い下げだ、どんどん離れていってくれ」と思える場合は損とは言えません。ですが、そればっかりやっていると、本当はあったかもしれない楽しいことがなくなったり、あるいはいつかコミュニティを出ていかないといけないくらい居心地が悪くなってしまったりするかもしれません。いずれにしても機会損失という形では大きなものになってしまうのではないかと思います。
どちらがどうだというのは難しい、としましたが、これらの思考過程を経てあえてことを単純にすると、鈍感は罪、敏感は損と言えるのではないかと思います。罪も損も定量的な評価はできませんが、追っているものの種類の多さで言えば、上述した傾向は見えるのではないかと思います。そして、敏感な人はこの構図に腹を立て、鈍感な人(の中で敏感寄りの人)はこの構図にうっすらと後ろめたさを抱いている……というのが現実をよく捉えられている気がするのです。
じゃあどうすればいいのか?敏感な人が鈍感になるというのが一番難しいことです。敏感な人の中では、嫌だと思うことの中にハッキリとした理由があるからです。これは意識するなと言われて意識できなくするものではありません。たとえば、「今から全裸になりなさい!恥ずかしがるのをやめろ!」と言われてもなかなか難しいようなものです。そしてそれがなぜ嫌なのかと言われても、「常識だから」「普通そうだから」など以上の論理的な理由が出てこないのも厄介です。じゃあ鈍感な人が敏感になればいいのか?というとこれも微妙です。鈍感な人は不当の扱いの範囲も広くなり、不幸になる確率が上がります。敏感な人が鈍感な人に気づかせるために多大なコストを払わないといけないという点は変わりません。さもみんなで協力して不幸への道を進んでいるような感じがします。
現実には、この世界の人間が敏感と鈍感にくっきり分けられるわけではありません。ほとんどの人が、一部に関しては敏感で、一部に関しては鈍感である、その両方の性質を併せ持つのが現実に近いと思います。そして罪には気づかないが損はハッキリと認識している人が多いのだと思います。そんな状態でもこの世界が成立しているのは、なんだかんだでみんなが折り合いをつけながら生きていけているからだと思います。時には話し合いによって溝を埋めてみたり、時には距離をとって同じことに鈍感な同士だけで群れたり、時には同じことに敏感な同士で共通の敵を作って攻撃したり、そして時には血で血を洗う戦争をしたり……人間がいる限りどこかでは必ずぶつかってしまいます。本稿ではどうすればいいかの結論を出しませんでした。一般的な原理原則はおそらく出しようがないのでしょう。だからこそ、こうに違いない!と安易な結論を出すのがもっとも危ないことであると思います。なるべく多くの手札を持ち、総合的に考えられるようにありたいものです。