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強迫観念に基づく蓄積で生きている

人によって人生を動かすエネルギーというのはそれぞれです。恋人のためとかキャリアのためとか、病気に苦しむ人のためとか恵まれない人のためとか、ただ一つに絞ることができなくても一つはあるのかなと思います。わたしの場合、それは「蓄積」ではないかと思います。人生の明白な目的があるわけではなく、蓄積のために蓄積する、しかもそれはやりたくてやっているというよりも、やらなければならないという強迫観念に基づくものではないかと思うのです。そして、始末が悪いことに、その「蓄積のための蓄積」に時間を使うことに対して後悔や不安を感じながら生きているのです。

蓄積vs成長

わたしのいう「蓄積」という言葉は、世間で言われる「成長」という言葉とはちょっと違います。単純に「成長」という言葉に手垢がつきすぎていて嫌い、というのが第一ですが、それだけではありません。「成長」という言葉は何か明確な目標や、あるべき姿があって、そこに近づいていく様子を表す言葉だと思います。たとえばITエンジニアが基本情報処理技術者を取って業務に活かせるようになるのは成長です。わたしのいう「蓄積」にはあるべき姿というものはなく、ただ積み上げられていくもの、という意味です。言い換えると、「蓄積」のちゃんとしたバージョンが「成長」であって、部分集合のような関係性と考えています。

わたしは強迫観念に基づいて、この「蓄積」を繰り返しています。たとえば、わたしは今でもクッキークリッカーをやっています。クッキークリッカーでクッキーを多量に焼き、称号をアンロックしていく様子を見ていると安心するのです。これは「PCを立ち上げてクッキークリッカーを実行しなければ見ることのできなかった景色だ」ということに安心するということです。また、beatmaniaに代表される音ゲーのクリアランプも蓄積の一つです。音ゲーのクリアランプは音ゲーにおいてしか意味がないですが、それでも「昨日よりもランプが増えた」ということに安心します。

「蓄積」についての話をしましたが、ではこれに対する強迫観念があるとはどういうことでしょうか?それは、あらゆる隙間の時間をこの蓄積活動で埋めようとする、ということです。言い換えると、何もしないでぼーっとしているということができない、もしくはあらゆる時間に意味を見出そうとしてしまう、ということです。常に「何かしないとな〜」と思ってしまい、その結果何にもならないクッキークリッカーをやるというのはなんとも逆説的ですが、本当に何もしないよりはマシなのです。
そして厄介なことに、その安心は結局かりそめのものでしかありません。1日の終わりに、本当にクッキークリッカーしかやらなかった日があると巨大な後悔をします。「もっと有意義なことができたんじゃあないのか?」「勉強していればもっといい1日にできたんじゃないか?」など、自分のやったつまらない蓄積に対する反省をしてしまうのです。このように、強迫観念に基づいて時間を使い、それを異なる種類の強迫観念に基づいて後から責める、という健全でない精神のすり減らし方をしています。言い換えると、何かの強迫観念に基づいて蓄積行為をしているが、本質では成長を求めている、という感じになるかもしれません。

積み木で城を作ることを「成長」に例えるのであれば、蓄積はレゴブロックをどんどん購入して床にばら撒いている状態とも言えます。今のわたしの状況は、心の底ではでかい城(具体的なビジョンなし)を作りたいのに、どうしていいか分からずがむしゃらにレゴブロックを買ってきては床にまき、それを裸足で踏んで絶叫しているような感じです。本当に不健全と言う他ありません。

このままでは良くない

この考え方に際して、問題が3つあります。

第一に、「この強迫観念がある割に、立派な蓄積ができるほど努力ができる人間ではない」ということです。この強迫観念に基づいて、本を何百冊と読んで勉強するタイプの人間であれば、おそらくもっと立派な人間になれていたのだと思います。ですが、本を読む前に「この本で得られるものはなんだろう?」とか「どうせ理解できなくて大した蓄積にできないのではないか」「実力不足ではないか」と考えてしまい、二の足を踏むケースが多いのです。努力のスカラーが大きく、「とにかくやるぞ!」と頑張れるタイプならいいのですが、この強迫観念を言い訳にして、どうでもいい、確実に得られる小さな蓄積に手を出してしまう、というのが正直な実態です。言い換えると、「リスクを冒して大きな蓄積を得ることをせず、小さなつまらない蓄積ばかりをしている」状態になってしまっているように思います。

第二に、この考え方は恋愛と致命的に相性が悪いということです。あんまり恋愛をしてないので的外れかもしれませんが、恋愛というのは「消費」の極致のようなところがあり、「一緒にいて楽しければそれでいいじゃない」という考え方が支配的と思います。「何か有意義なことを…」という武装を解いて、互いに癒しや施しを与える状況が恋愛なのでは、と思っているので、こういう考え方の人間を相手にすると疲れて面倒くさくなってしまうように思います。また、家で一緒に過ごしているときにクッキークリッカーのゴールデンクッキーをクリックしていたら嫌ですよね。リラックスするということに集中するのは今のままでは無理だろうなと思います。

第三に、この考え方が他人に向くと超絶モラハラ最悪人間になってしまうということです。他人の行動に対して「それをして何になるの?」という意味を求めるようになると最悪です。それが家族や部下であると特に最悪です。ある意味でこの状況は自分自身に対してモラハラをしている状況とも言い換えられるので、自分に向けている時点でもすでに割と最悪なのかもしれません。

なんでこうなったのか

問題点について考えたので、じゃあどうするかも考えたいのですが、その前になんでこんな考え方になってしまったのかについて考えてみたいと思います。それはおそらく二つあり、一つは成功体験、もう一つは恐怖体験だと思います。

成功体験はずばり受験勉強です。大学受験は100点満点ではないですが「80点というと烏滸がましいくらいの成功」を収めることができました。これは、カリキュラムに沿って努力を積んで積んで積んだことによる結果に他なりません。(また、それができる環境に恵まれた結果でもあります)この時は大学受験という明確な目標があり、必要なものもピックアップされていたので、それに沿ってただ突っ走るだけでした。方向性を疑う必要もありません。教科書に載っているあらゆることが対象で、知っていることは知らないのよりも偉く、解けることは解けないことよりも偉い、というシンプルな規範に従って生きていました。
また、大学に入っても同じ傾向が続いていました。わたしは経済学部に入ったのですが、経済学はカリキュラムが割としっかりしていて、決められたレールが結構しっかりありました。なのでそれにちゃんと乗っかっていれば着実に「積み上げる」ことができたのです。(のちにこれが罠だと知ります)

恐怖体験は何かというと、それは就活です。就活をすることで、世界のとんでもない広さを知りました。本当は大学受験で知っていてもおかしくなかったのですが、自分の場合は大学院や就活がそれでした。世界にはとんでもない努力を積み上げてきている人がたくさんいました。ちょっとでもサボってしまうと、そういう人たちにすぐにおいていかれてしまい、気づいた頃には蓄積の量で圧倒的な差をつけられてしまうのです。
また、自分の蓄積してきたものが、就活ではなんの意味ももたらさないことを急に知ったのです。正確にいうと、「自分の蓄積してきたものに意味が必要になる」ことを知ったというべきかもしれません。経済学部でラグランジュの未定乗数法が使えるようになってもそれだけで意味があるわけではないのです。このことは、薄々気づいてはいたけれども、目を背けていただけでもあります。これによって、「ただの蓄積には大した意味はない」ということに気が付いてしまいました。これが、大したことのない蓄積に対する罪悪感を生む要因になっています。
高望みしすぎたこともあり、就活がうまくいかない時期がありました。そのときに感じた「このまま、まともな職を得ることができず、社会から切り離されてしまうのではないか」という絶望感は今でも忘れられません。今でも職を失って路頭に迷うことの恐怖感が心の奥底でわたしを支配しています。これらの恐怖体験によって、常に何か有意義なものを積み重ねなければならないという強迫観念が植え付けられているように思います。

頭では分かっているが……

この問題について、頭ではなんとなく分かっていることは二つあります。一つは、「何が役に立つか分からない世の中だから、がむしゃらに蓄積することはそう悪いことではない」ということです。宇宙についての知識や鉄道についての知識が、直接、システムエンジニアの仕事で役に立ったり転職に使えたりすることはないのですが、ある日何かで使える日が来るかもしれないのです。これは部屋のガラクタを「いつか使える日が来るかもしれないから」と言ってとっておく行為に似ていますが、知識に関しては散らかっていてもコストがかからないので困るものではなさそうです。また、蓄積されたものが明確にはっきりと言語化のできないものであるケースもあります。仕事の進め方などがそうです。仕事で得た経験によって、自分の行動の癖が良くも悪くも生まれてくることがあります。これについては、「蓄積」や「成長」が起こっているということに気が付かずに起こっている現象です。仕事を進めたり人生を豊かにしたりするのはこういう言語化の難しい経験則や、直感であることがしばしばあります。こういうのは意図して得られるものではないので、人間の努力で何とかなると思わない方がいいのかもしれません。
また、「蓄積」に意味をもたらすのはあくまで後付けである、という考えもあります。つまり、大学のサークルで毎晩酒を飲んで肩を組み校歌を熱唱することを「チームワークの向上」に結びつけて話したり、キャバクラに通って女を口説き落とすことを「営業活動の練習」と銘打ったりするということです。こうやってずる賢く生きていくのが今の世の中では最適な戦略なのかもしれません。

もう一つは、「人生において“やらなければならない”ことなんてそうそうない」ということです。先程の「何が起こるか分からない世の中だから……」ということは、成長に関する強迫観念(≒蓄積に意味をもたらそうとする強迫観念)については緩和してくれますが、蓄積それ自体に対する強迫観念を拭い去るものではありません。強迫観念から解き放たれるには、もう一歩踏み込んで考える必要があります。人生は楽しむためにあるもので、労働は仕方なくやっている。消費こそが全て。快楽の最大化を目指そう!……という考え方で生きていけば。それで生きていくことができれば、それが一番気楽だと思います。
ただ、この考え方は気楽ではあるのですが、長い目で見たときに不安になる気しかしません。その考え方で生きていて、ある時行き詰まり、その時に初めて「自分にはなんの蓄積もなかったのだ……」と気づいた時の絶望感は想像を絶するものです。その心配を全くしないで生きていける自信はあまりなく、常に心の片隅に1%以上その心配を抱えながら生きていくことになりそうです。そういう意味で今の状態とあんまり変わらない可能性が高いです。
先程のずる賢い戦略をこちらにも適用するとしたら、快楽のままにした行動に意味をもたらす、ということができるのかもしれません。この世界の多くの人はそれで生きている気がするので、なんかもうそれでいいんじゃないのかな……という気もしてきます。

まとめ

長くなってしまいましたが、要約すると以下の通りです。
・常に何かを蓄積しなければ、という強迫観念と一緒に生きている
・しかもその蓄積には意味がないとダメだという強迫観念もセットである
・この考え方をずっと持っているとたぶんヤバい
・この世界は何が役に立つか分からないから、とりあえず積み重ねて意味は後で考えればいいのではないか?
・快楽に任せてやったことにあとから意味を見出すアプローチだってそう悪くないかも

こうして考えると、本当に生きるのって厳しいなと思います。わたしみたいな恵まれた環境の人間が言うには甘ったれた話しなんだと思うのですが、それぞれの人間がそれぞれの生きづらさを感じているのだと思います。わたし自身が感じている生きづらさについて、本稿で言語化できたのはよかったなあと思っています。

毎週水曜日にnoteの定期連載をしてきましたが、本稿でついに50回目になりました。これは優れた蓄積だと我ながら思っています。この蓄積にどんな意味があったのか、あるいはどんな意味を作れるのか。その答えが出る頃には、本稿で書いた生きづらさも少しは緩和されているのではないかな?とかすかな希望を抱いています。

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