「あなたじゃないと駄目」をめぐる責任感の話
アイドルマスターシャイニーカラーズというゲームで「YOUR/MY Love letter」というイベントが開かれました。イベントコミュ(イベントのストーリーみたいなものです)の完成度が非常に高く、ソーシャルゲームのストーリーで味わったことのない余韻を受けました。本稿ではこのイベントコミュを読んで感じたことを書いていきます。ネタバレはなるべく避けて書きますが、気になる方はイベントコミュを読んでから読むようにしてください。
「YOUR/MY Love letter」というイベントコミュは、複数の人間が登場する群像劇になっています。アイドルの話なのに、アイドルのセリフが全体の20%以下くらい、という非常に挑戦的なシナリオです。登場人物のセリフに、以下のようなものがあります。(誰のセリフなのかはネタバレになるので伏せます)
このセリフが非常に、非常に印象に残りました。これ以外にも印象に残ったセリフがたくさんあるのですが、本稿ではこれに絞って書きます。
「あなたじゃなきゃ駄目」と言われること、思われることはいいことなのでしょうか?あるいはよくないことなのでしょうか?ここはかなりアンビバレントな世界だな、と思うのです。
仕事の話をします。わたしの職場には、替えが利かない人がたくさんいます。「この業務はAさんにしかできない」「詳しくはBさんに聞いてほしい」「今日はCさんが休みなので休み明けに確認しますね」などのセリフが飛び交う職場です。一般に、これは「業務の属人化」と呼ばれる現象です。Aさんが退職したら、あるいはBさんが交通事故で死んだら、その結果ヘタをすると事業が継続できないという事態になるのです。これは避けた方がいいことと言われています。そのため、自分の仕事はなるべく「誰にでもできる仕事」にしておくことが推奨されています。いつでもその仕事から離れられるようにしておくことで、それが将来の自分を守ることにもなる……というわけです。事実、その替えが利かない人の激務ぶりを見ていると、「ああなったら嫌だなあ」と思うのです。
わたしの職場は高齢化が進んでいます。属人性のある仕事を持っている人たちがここ数年でどんどん辞めてしまうことが予想されており、「勘弁してくれ〜」という状態なのです。偏見かもしれませんが、昭和の時代は「自分にしかできない仕事」は誇りであり、それを作ることで自分の立場を守ってきた……という人も少なからずいるように思います。こういう人は責任感があるように見えますが、自分がいなくなった後のことを考えていないという点で責任感がない人です。お前たちが何をわからないのかわからないからお前たちが積極的に教わりにこいなんてことを言うベテランの人間たちは自分にしかできない仕事があるということに自分の価値を不当に見出して陶酔している責任感のない奴らだということです。いなくなった後のことを考えるのは責任者の仕事ですし、仕事を辞める当人にとってはなにも困ることではないので、担当者レベルが気にすることではないのかもしれませんが……。
このように、「この仕事はあなたにしかできないね」というのは勲章というよりも非難であることが多い……というのが、少なくともうちの職場での状況です。組織として働くにあたっては、なるべく自分の仕事を「部品」化すべきという道徳があるように思います。「自分にしかできない仕事を作ってはいけない……」ということが、自分の深層心理に呪いのようにこびりついています。
さて、話を変えて芸能界の話をします。アイドル、タレント、俳優、声優、お笑い芸人などなど、芸能界で働く人たちは替えが利かない存在である必要があるように思います。数多くのライバルたちの中から、選ばれなければいけないからです。キャスティングの一つ一つには理由があるので、選ばれるためには、「自分がその理由を満足する人間である」ということを知ってもらわなければいけません。どのライバルにもできない、自分にしかできないことは何なのか、ということを常に自問していかなければいけません。それは日々のたゆまぬ努力と高度な戦略の両方が揃って手に入れられるものです。
一方で、芸能界でも「部品」が求められるケースがあります。TBSラジオの「伊集院光とらじおと」という番組がありました。2022年の3月末に惜しまれつつ放送が終了しました。その終了に際して、伊集院さんは「自分を必要としてくれる人、自分じゃなきゃ駄目なんだという人と一緒に仕事がしたい」ということを話していました。昼の帯のラジオというのは、役割が決まっているというか、ニュースがあり、ラジオショッピングがあり、お便りコーナーがあり、という具合に、「世の中でなんとなく求められているもの」というものに寄せてできているように思われます。そういう意味で、ラジオ局の編成担当は、無難な「部品」としてのラジオパーソナリティーを求めてもおかしくないように思うのです。伊集院さんはTBSラジオの編成担当や上層部から、そのような思想を感じ取ったのではないか……それでそのような発言をされたのではないかな……と想像することがあります。(もちろん本人ではないので本当のところは分かりませんが……)
以上のことから言えるのは、「替えの利く存在」と「替えの利かない存在」では、どちらの方が優れているということもないのだろう、ということです。よく「AI時代の到来によって何物にも代えられない存在にならないと生き残れない!」と言う言説を耳にしますが、おそらくこれは安易な言説なのではないかと思います。おそらくわたしたちは、「替えの利く存在」と「替えの利かない存在」の両方の性質を満たすことを目指さなければいけないのではないか?と思うのです。もっというと、「替えの利く存在」であることの責任感と、「替えの利かない存在」であることの責任感の両方が存在するのではないか?と思うのです。
「替えの利く存在」であることの責任感とは、自分以外の人間も自分との競争に参加させる、ということです。たとえば、「ライトニングケーブルの規格を公開して、Apple社だけではなくエレコムやIOデータにもライトニングケーブルを作れるようにする。そして自分はエレコムとの競争に勝ち、ちゃんとライトニングケーブルを売って儲けるのだ!」というようなことです。「替えの利かない存在」であることの責任感とは、自分が参加することの「意味」をちゃんと見出す、と言うことです。自分がこの仕事をやるからには、他の人にはできないようなこういうところにこだわりを持ってやろう、などのように自分らしさと優位性を出す、と言うようなことです。
物事は何でもバランスが大事……といたるところで色々な人が言っています。結局のところこの「あなたじゃなきゃ駄目」ということも、バランスの問題なのだと思います。自分はちゃんとした意味で「代替可能な存在」であり、「あなたじゃなきゃ駄目」な存在たり得るのか……明日からもずっと自問することになるのだと思います。