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食堂の返却口に「ごちそうさまでした」と言うかいつも迷う話

みなさま、「ごちそうさまでした」していますでしょうか?

わたしは今までの人生で、心に念じてきた分を含めると累計で軽く1万回は「ごちそうさまでした」をしているように思います。しないことで何か罰せられるわけでもないですし、することで良いことがあるわけでもないですが、心の奥底に染み込んでおり、毎食ごとにしているように思います。

そんな「ごちそうさまでした」に対して、一つ大きな悩みがあります。それは、会社の食堂の返却口に向かって、「ごちそうさまでした」を言うことが果たして良いのか、という問題についてです。順を追って説明していきます。

一般「ごちそうさまでした」論

「ごちそうさまでした」を言う目的として、人口に膾炙しているのは以下のものです。

①今日も食事にありつくことができたことを天に感謝する
②肉や魚、野菜や穀物などの命を頂戴していることに対して感謝する
③料理を作ってくれた人に感謝する

誤解を恐れずひっくるめてしまうと、「食べ物が食べられるのは決して当たり前のことではなく、この食事は多大なる犠牲のもとに成り立っているのである」という感謝がメインであると思います。本稿における重大な前提として、この3つの意義を疑うことはしないものとします。わたしは、上記3点の理由に基づく「ごちそうさまでした」を、食事を終えて箸を置いた時点ですでに心の中で済ませており、そのうえでの葛藤についてを以下に記します。

問題の構造について

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問題について語る前に、弊社の食堂の構造について説明しておきます。弊社の食堂は、調理場で料理を受け取り、座席について食事をとり、調理場とは別の場所に配置されている返却口に食器を返却し、出口から颯爽と出ていく、という構造になっています。人の流れからすると、きわめて合理的なシステムとして出来上がっています。察しの言い方はお気づきと思いますが、本稿で議論したい問題は、返却口で、皿洗い担当の皆様と目が合い、「ありがとうございました」と言われたときに、果たして「ごちそうさまでした」と返すのが正解なのかということです。

食堂退店時の「ごちそうさまでした」について

食堂を退店するときに、「ごちそうさまでした」という人がいます。私もその一人でして、無言で退店することに対してそこはかとない抵抗感があります。この場合、上記の一般論で述べた「③作ってくれた人への感謝」の念として、「ごちそうさまでした」を言わなければならないという使命感に即したものであるように思います。わたしはその考えに即して、退店するときには厨房の方角を向いて「ごちそうさまでした」と言っています。

ただ、時に別の意味を帯びるときがあります。それは、「俺は食事を終えて帰るぞ」ということの合図の意味です。あえて嫌な言い方をすると、「この皿を置いてわたしは席を立つ。これは食事を終えて退店をするからなので、この皿をとっとと片付けて洗え。」もしくは「俺は帰るぞ。さあ、お前は俺のお会計をするために一度手を止めて、俺が支払う金を受け取るための準備をしろ。」という意味を帯びることがあるということです。必要なことを伝えるために、婉曲にオブラートに包んではいますが、「ごちそうさまでした」という素敵な言葉を使って伝えるにはちょっと横柄な感情であるような気がしてしまいます。さながら、西陣織の布でもつ煮を直に包むような抵抗感があります。

翻って、食堂の返却口に自分の食べた食器を返すときに言う「ごちそうさまでした」はどうでしょうか?返却口の向こう側にいる人たちは、料理を作ってくれた人たちではありません。そうなると、この「ごちそうさまでした」には、作ってくれた人への感謝の意味は乗って来ず、「俺は帰るぞ、さあこの皿を洗え」という意味での、退店の合図としての側面である「ごちそうさまでした」だけが抽出されるように思えるのです。

上記の思考は、あまりにも縦割りじみているかもしれません。食堂で食事をするにあたっては、食事を作ることだけでなく、皿を洗う、配膳する、掃除をする、その全てに対して感謝する必要があります。したがって、皿を洗う人に対しても、「ごちそうさまでした」という言葉で謝意を伝えることも間違いではない、と考えることもできそうです。この考えを検証するため、別の例で考えてみます。コンビニで弁当を買って、家に持ち帰って食べた時のことを考えてみましょう。食べ終わって弁当がらを捨てるときに、家のゴミ捨て場に行ったとします。ここでゴミ収集業者に遭遇した時に、「ごちそうさまでした」と言うのは自然なことでしょうか?弁当を食べるという行為に対して、そのゴミを処理することも必要不可欠なことです。したがって、上記の理屈ではゴミ収集業者に対しても「ごちそうさまでした」を言うことが正しいと言うことになります。これは明らかに直観に反しているので、上述の仮定では、どこかが不完全なのだと思われます。おそらく、「皿を洗ってもらう人」-「皿を洗ってあげる人」の関係性を抽出すれば、「ごちそうさまでした」よりも、「よろしくお願いします」が適切のように思われます。ですが、そう言っている人はなかなか見たことがなく、これも直観に反するように思えます。だんだんと正解が分からなくなってきます。

組織に対しての「ごちそうさまでした」説

上述の論理を少し発展させて考えてみます。食事は、食堂で働くすべての人による共同作業によって成り立っています。したがって、「ごちそうさまでした」は本来組織全体に向けられるべきものです。この考え方に即すと、組織の全員に対して言葉をかけることはできないため、組織にいる人を代表して、目についた誰かに「ごちそうさまでした」を言えばよい、と言うふうに考えることができます。この考え方によれば、皿を洗う人に対して「ごちそうさまでした」を言うことも、一定の合理性があります。最後に目についたのがシェフであれば、シェフに「ごちそうさまでした」をし、最後に目についたのがレジ係の人であれば、レジ係の人に対して「ごちそうさまでした」をする。それと同じように、最後に目についた人が皿を洗う人であれば、皿を洗う人に「ごちそうさまでした」をするのも、そうおかしくないように思えます。

しかし、この考えに対しても、どうにも100%では腑に落ちない面があります。それは、挨拶というものが一種の呪術的要素を含んでいる、という点が絡んできます。

挨拶をする時、人は相手に対してエネルギーを発しています。たとえば、クラスの美少女が「おはよう」と挨拶をした場合、モテない男を恋に落とすことができます。これは、挨拶の持つ呪術的な力の作用です。上記の例は偏見に満ち溢れた例ですが、いずれにしても、挨拶は人の感情に何かを残す効果があるため、自他両方のために、用法容量を守った正しい挨拶をして行く必要があります。

では、レジ係の方や、皿洗い担当の方はどうでしょうか?組織を代表して「ごちそうさまでした」のエネルギーをたくさん浴びることになるため、この方々は余分なエネルギーを浴びることになってしまいます。特に、皿洗い担当の方々にとっては、ただでさえ皿を洗うという重大な任務があるところに、さらに「ごちそうさまでした」の呪術も食堂を代表して受ける、ということになってしまいます。これはあまりにも荷が重すぎるような気がしてしなりません。まして、自分のしている行いからは、少しずれた観点でのあいさつをされ続けるということにもなります。何となく、「負担」ともいえない「何か」を、余分にその人たちに押し付けている気がしてしまい、言い知れぬ抵抗感を覚えてしまうのです。

完璧な「ごちそうさまでした」は正味不可能

以上、あまりにも長くなってしまいましたが、「ごちそうさまでした」をめぐる葛藤について書いてみました。返却口とキッチンが併設されているタイプであればここまで悩むことはないのですが、返却口だけが完全に別で分けられているせいで、ここまで大きな葛藤を覚えることになったのです。

ですが、もし、返却口とキッチンが併設されていたとしても、食堂の外にまで考えを広げてしまうと、結局のところ完璧な「ごちそうさまでした」はできないのではないか、とも思えてきます。食堂を出る時、厨房に向かって「ごちそうさまでした」を叫ぶのは、食事を作ってくれた人への感謝の念の表明ですが、サプライチェーンを考えると、厨房だけでは足りません。食肉業者や農家、さらには卸売の業者など、そうした方々がいない限り、食にありつくことはできないためです。そういった方々が少しずつ払ってきた犠牲の蓄積によって、食卓があるのです。したがって、どんな形であれ、「ごちそうさまでした」を言葉にして表明する場合は、包括して表明することはできず、何かに代表して託すしかないのかもしれません。結局のところ、その代表たりえるものは、「天」だけなのかもしれません。虚空に向かって呟き、天に捧げる「ごちそうさまでした」だけが真実で、それ以外は単なるコミュニケーションの乗り物である、と割り切って考えるべきなのかもしれません。

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