
死のハードルが上がってて怖い
死が怖いです。
生まれてこの方ずっと死が怖いのですが、それは死の直前に訪れるとされている強い痛みや苦しみに対するものが主でした。苦しみへの恐怖も当然まだあるのですが、最近別の種類の恐怖がわいてきたので、本稿ではそれを書いていきたいと思います。一言で言うと、「この世にありふれている割に、死ぬことのハードル高すぎでは?」ということです。
死はありふれている
人は簡単に死ぬ……この事実に気が付くと、自分が生きていられていることがだんだん不思議に思えてきます。道を走っている自動車や車に轢かれたり、火事が起きたり、地震が起きたり、例の病気にかかったり、寝ている間に隣人が窓越しに猟銃を撃ってきたり、駅のホームで電車を待っているときに後ろの人が前のめりによろけたり、死にうる機会はこの世界に無数にあります。よくよく考えると、何の指示も出していないのに心臓がずっと動き続けているのは奇跡としか言いようがありません。マジでなんで動き続けられてるんでしょうか?
最近のマイブームが、YouTubeでゆっくりボイスによる飛行機事故などの解説動画を見ることなのですが、こうした動画を見ているとなおさら、人間の生がきわめて脆い橋の上でかろうじて成り立っている、という感覚を覚えます。
さらに厄介なのは、「死なない」ということは意志でどうにかなるものではないというところです。たとえば、「ピーマンを食べないぞ!」「振り込め詐欺をやらないぞ!」「飲酒運転をしないぞ!」というのはある程度意志でカバーできる面があります。ですが、「死なないぞ!」というのはどんなに強い意志があっても、たまたま近くを通りかかったダンプカーにはねられてしまったらどうにもならないように、運の要素が極めて強いです。さながら、100万分の1で当たるくじを毎日引いているような感覚です。社会の色々な人の努力によって、当たりくじの確率は100万分の1よりずっと低くなってはいますが、それでも死は避けられず、いつか何かのタイミングで、当たりを引くことになるのです。
死のハードルが高い
一方で、そんな運でしかないことに対して、死ぬことへのハードルは極めて高いです。現代社会は、人間をただで死なせてくれません。
死ぬことにはお金と手間がかかります。死ぬ前に病院のお世話になると医療費が莫大にかかりますし、葬式にもかなりのお金がかかります。お金については、自分に生前のたくわえがあればある程度何とかなりますが、恐ろしいのは手間です。何かの事故であれば、原因の究明や処理にたくさんの大人が時間を使うことになります。そして何より、人が死んだ後は「この人が死にました」ということを社会に「登録」するための、行政手続きが無数にあります。(幸いにもわたしはまだやったことがないので、全貌をわかっていませんが……)ここでかかる手間の恐ろしいところは、死んだ本人が代わって手続きをすることができないということです。必ず、現世に残された誰かがやらないといけません。妻子のないわたしの場合、おそらく両親がそれをやってくれることでしょう。両親が自分のことをどう思っているか本当のところはわかりませんが、さらなる子孫を残さずに死んだ子どもが死んだことの行政手続きをしなければならない、ということを想像すると、心が痛んで痛んで仕方がありません。
また、人が死ぬことは大きな悲しみも巻き起こします。もちろん喜ぶ人もいると思いますが、幸運にも(もしかしたら不幸なのかもしれませんが)、今のわたしには死んだときに悲しんでくれる人がいると思われます。たとえば職場の上司には「せっかくいろいろなミスに目をつぶってきたのに、後継者がいなくなってしまったよ」と嘆かれるでしょうし、よく通っている店の店員からは「客が一人減った!」と嘆かれるでしょう。悲しみの形はさまざまですが、とにかく死によって、何らかの人に悲しみを与えてしまうことは確かです。
ありふれているのに、ハードルが高すぎる
以上のように、コントロールが難しい「死」というものに対して、それを引き当ててしまったときの影響の大きさを、最近とても恐ろしく感じています。家庭、職場、社会……あらゆる方面から「絶対に死ぬなよ」という圧力がかかっています。死にたいと思ったことは最近ないですが、「死んではいけない」というプレッシャー、義務感の大きさに、押しつぶされそうになる時があります。
決して、この圧力を緩めてほしいというわけではないのです。「いつでも死んでいいよ」と社会に言われる方がよっぽど怖いですので、現状の方がよいです。というか、こんなに恵まれていることはなかなかないとも思っています。死のハードルは高いままでいてほしい、ということと、それでも死のハードルが高いことが怖い、ということは両立します。
わたしのような気の小さい人間は、どうやったら人に迷惑をかけずに済むか、ということばかり考えてしまいます。その一環で、どうやったら安全に、人に与える悲しみや社会に与える影響を少なく、この世界からログアウトできるのだろうか、ということを折に触れて考えてしまいます。もしかするとその方法を見つけることが、人生なのかもしれません……。ずいぶん難しい宿題を課されてしまったものですね。