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タイトルをつけるのが難しい
文章を書く作業が建築だとしたら、題名を付けることは彫刻である、と常々思っています。わたしは文章を書くことに比べて、題名を付けることに大きな苦手意識があります。なぜ苦手に思うのか、本稿で因数分解して考えていこうと思います。
タイトルは重要
第一に、タイトルは非常に重要であり、決定にプレッシャーがかかるからです。インターネットで書かれた文章は、常にリンクの向こう側にあります。インターネットに限らず、図書館や書店に並ぶ本も、背表紙と表紙の向こう側に文章があります。すなわち、タイトルには、文章を読んでもらうための入口の役割があります。タイトルから「読んでみたい!」と思わせなければ、文章を読んでもらうことはできないということです。それが如実に現れている例として、「なろう系小説」と言われるジャンルですと、「タイトルに情報量を詰め込むだけ詰め込んでおいて、大体話の内容が分かるようにする」という流行があります。これはこうした強迫観念に基づいたものである、ということは言うまでもないでしょう。数ある小説の中から抜きん出た存在であること、他を出し抜く奇抜な設定が含まれていることを、タイトルから読者に訴えかけています。このように、特にインターネットの文章において、タイトルは文章自体の実存に関わる重大な役割を担っているのです。重大であるというプレッシャー、また、タイトルを付けた時に、「自分はこのタイトルの文章を読みたいと思うだろうか?」という強迫的な内省によって、タイトルをつける局面になると、いつも息が詰まる思いになります。
さらに言うと、ブログでも、はたまた原稿用紙でも、タイトルという超重要な意思決定は、最初に要求されます。どんなユーザーインターフェイスでも、文章のタイトルは先頭に存在します。これは「最初にタイトルをつけろ!」という潜在的な圧力にほかなりません。わたしは問題を先送りにするタイプの人間なので、最初には適当な仮題をつけて、後でちゃんとした題名を考えようとするのですが、後にすれば簡単というわけでもありません。後回しにして、文章をすべて書き終わった後に考えたとしても、仮で付けたタイトルのダサさ、そして、そこから変更するアイデアが沸かないことに対して絶望と焦燥を感じることになるのです。余談ですが、わたしはTwitterが流行ったことの一因には、「投稿の一つ一つにタイトルをつけなくていい」ということもあるのではないかと思っています。自分の書いた文章にタイトルをつけるというのは、余所行きの服に着替えるような、そんな仰々しさがあるように思います。
タイトルは究極の要約
タイトルをつけることに難しさを感じる第二の理由として、要約力が問われる、ということがあります。わたしの高校時代の現代文の教師が、「タイトルとは究極の要約である」という旨のことを言っていました。タイトルは、文章全体の言いたいこと、特性をはっきりと短い言葉で表現する機能を持ちます。そのため、ひと段落で書く要約文よりも、さらに密度の高い要約を提供する必要があります。
一方、わたしにはつい文章が長くなってしまう癖があります。このことの原因は複数考えられますが、最も大きなものとして、「捨てることが苦手」というのがあるように思います。わたしはものが捨てられず、部屋が汚い傾向にあります。いつか使うかもしれないという理由で、物を捨てられず、ついとっておいてしまうのです。文章においても、あれを書いた方が、これも必要、と、思いついたことを全て書いてしまう傾向にあります。このタイプの人間にとって、要約とは勇気のいる作業です。自分の本当に言いたかったことはなんなのか、ということを、タイトルづけの際に改めて見つめ直し、それ以外をそぎ落とす必要が出てくるからです。冒頭で、わたしが「タイトルをつけることは彫刻のようである」と書いたのはこの理由があります。つまり、タイトルをつけるということは、自分が書きあげてきた文章を、魅力的なものになるまでそぎ落とす作業であるということです。例えば、『半沢直樹』というタイトルは、「銀行員の話である」ということや、「巨悪に立ち向かう話」ということや「上戸彩が妻でそこはかとなくエロい」ということなど、そういうことをすべてそぎ落として、半沢という主人公の名前だけを彫り出してタイトルとしています。また、『ダ・ヴィンチ・コード』というタイトルは、「殺人事件がある」とか「聖杯が~」とかそういうことをすべてそぎ落として、「ダ・ヴィンチがらみの暗号」という話の一番おいしい部分を彫り出してタイトルとしています。このように、話の中で一番重要な部分をピックアップする、というのは、実は壮大な選別のプロセスです。まさしく「部屋の中のものを一つ残してすべて捨てる」と同じくらいの、煩悩との戦いにも似た営みであると思うのです。
タイトルはセンスが問われる
タイトルをつけることに難しさを感じる第三の理由として、タイトルには言語的センスが問われるということがあります。文章の魅せ方にはいくつか種類があると思います。ある人はあっと言わせる面白い展開によって読者を魅了し、ある人は説得力のある論理的展開で読者を魅了し、そしてまたある人は言葉自体が持つ魅力を駆使し、読者の心にフレーズそのものを印象付けることで読者を魅了します。タイトルをつけるのが上手い人は、言葉自体の魅力を使って文章を魅せる人が多い、という印象があります。素晴らしいタイトルとして、言葉単体の火力が高く、読むものに想像を膨らませるフレーズであったり、意外感のある言葉の組み合わせによって読む者の心に強い印象を与えるフレーズであったりなどがあります。こうしたフレーズは、言葉が相手に与える印象を知り尽くし、巧みに使いこなせる人が生み出せるものであるように思います。わたしはこれがあまり得意ではないというか、どうにもコンプレックスのようなものを抱えています。詩的な言葉回しに対する照れというべきか、中途半端な能力でかちこんでいい領域でないとして自らに縛りをかけているというべきか……少なくとも、自信は持てない世界の話です。おそらく、この能力も正しい努力によって会得することができるものではあるのだと思います。ただ、自分にとっては、生き方自体を見直すレベルの方向転換をしないとたどり着けないほど、厳しく、険しい道のりであるように思っています。
難しいのは本当にタイトル付けなのか?
以上、タイトルをつけるのに苦手意識を感じている3つの理由を考察してみました。ところで、夏目漱石の小説に『夢十夜』というものがあり(このタイトルもまた良いですよね)、その中に彫刻の話が出てきます。木に鑿(のみ)を入れている運慶を後ろから見ながら感心していると、「運慶は木を彫って鼻や眉を形作っているのではなく、もともと木の中に埋まっている像を掘り出しているのだ、だから失敗するはずがない」というようなことを野次馬の若者に言われ、「それだったら俺にもできるわ」ということで木材を大量に持って帰って家で彫ってみたが、仏像が埋まっているものなんて一つもなかった……という話です。野次馬の若者が言っていることが真実であるとすると、違った事実が見えてきます。つまり、いい文章には、元から相応しいタイトルが埋まっていて、それを彫り出すことができるが、わたしの書く文章にはそれが埋まっていない、ということです。たとえば、言いたいことがはっきりしている文章であれば、タイトルはおのずと決まります。そして、その言いたいこと自体に魅力が詰まっていれば、決まったタイトルを見て、誰もが読みたいと思える内容になっているはずです。プレッシャーがあるとか、要約力がないとか、言語的センスが足りないとか、実はそういうことを考えている時点で二流、黙って文章の腕を磨きなさい、と、そういうことなのかもしれません……いやだーーーー助けてくれーーーーーーーーーーーーーーーー