(連載17)服に自分の夢をブチ込んでみたら、こうなった:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:1990-1991年
ロザンゼルスでは、車移動のおかげで、何を着てても誰からも干渉されることがなくなり、私は調子こいて、毎回外出するたびに自分の服に、過大なエネルギーを注いだのでした。しかし、しばらくすると、だんだん、それがチャ〜ラい行為に思えてきて、スローダウンするのですが。(連載15)
今回は、その頃の前後に、ちょっとお話をもどしますと。。。。
この「一風変わった格好」ってのをしてると、人が寄ってくるので、有益な事もありました。苦笑
「へ〜ぃ! ユー ルック グレイト!!」
と、ニコニコしながら、近づいてくる人々。。。。
今から考えたら、こういうのってアメリカ人だけ?かもです〜。
しかもロザンゼルスだけかも、、、という気もしないでもない。苦笑
当時はわからなかったけど、私の経験した数少ないヨーロッパ体験では、ここまでのは、あまりなかったように思います。
まして、日本だと、コスプレやハロウィンなどの集まりでは別ですが、普段の日に、いきなり変な格好で、現れる人がいたら、普通はドン引き。たとえクリエイティブ業界系パーティーでも、そんな変な格好してる知らない人に、自分から積極的に話しかけたりはしないですよね。
まあ、「ロザンゼルスでよかったです。私の場合、、、」って事ですよ。笑
アメリカ人は、基本的にお話好きが多い。社交において会話をとても大切にするような気がします。
それで、ロサンゼルスは「へ〜ぃ!」ですよ。
そして、そういう方々、、、は、その次、こう尋ねるんです。
「で、 君は何をやってるの?」
私は「サンキュー、実は、こういうものを作っているアーティストです。」と、言って、ミニアルバムのようなものをいつも、バッグに入れておいて、それをすぐさま見せられるように、準備しておったのです。(今だと携帯があるので、それを見せればいい話ですが。)
こんなんとか。
こんな営業用ボックス(箱好き!)
中央のくるくる巻いてる紙にプロフィールがかいてあり、名刺もすぐに渡せる!!
どんだけの営業魂よ!!!笑笑
ところで、「自分が好きなものを人に見せたり、それについて話したりする」というのは、「ショー&テル show and tell 」と言って、アメリカだとわりと当たり前の事で、学校でもやったりするらしいです。
日本だと、自分の事ばかりしゃべる人は嫌われるような風潮ですが、アメリカだと、「私はコレが好きなの〜!!!」と他人に話すのは、ある意味、よく行われていることなのでした。
で、私の営業魂からすると、「ショウ&テル」の、「テル tell」の部分が、チト弱いと気がついた。ひとつひとつ、写真を見せながら、
なんか喋りたい!
「これはこうで、こういう意図で作りました」と、言葉で説明したい!
いわゆる、作品説明の言語化の必要を、強く感じた次第であります。
それで、まず、作品群にわかりやすく名前をつけた!
発表!!
「ウェアラブル・ドリーム」
そして、そのコンセプトとはっ〜〜!!。
じゃーーーん!
衣服は、あなたのなりたいモノになれる表面である。
そして
ロマンチックなドリームを着用した我々は、
それにより自分の身体、行動をも拘束されるのだ!
というような、だいぶ、カッコつけた感じですよ。笑
要するに、コンセプトは、「服はなりたいものになる装置」
今でいう、コスプレです。(その頃この言葉はなかった)
コスプレだと王道ではアニメのキャラだとか、歴史上の人物だとかですが、私の場合はイメージのコスプレですね。
もともと月ノ夜ロヲザ嬢の詩からインスパイアされて、始めたこのプロジェクト(連載3−4)
((( 衣服は空想の表面 )))
ここから出発して、夢見る少女をきせかえ人形のように扱い、服をいろいろと取り替える。
ドレスは、「少女のなりたい夢の形」というテーマなので、ドレス=空想の表面という展開であります。
ですから、人形はもとより、童話、花、宝石箱、劇場、贈り物、影絵、など、少女の好きな題材が多くとりいれた。お子ちゃま仕様のロマンティシズム、それは子供が残酷な事を平気でするような、影の部分も含んでおります。
少女というフィルターを通しての、摩訶不思議な世界。グリムの童話のように可愛いけど、怖い、でもそれはゴス・ロリでなくて、サーカスの世界のようなカラフルで、明るいけど、その明るさにシャープな影が潜んでいる、人工的な領域。いったい、どこからが本当の闇でどこからが光なのかわからい。。。
と、いうような、世界観です。
。。。を、つらつらと自分の作品について言葉にできるところは言葉にし、で、また、それを英語で語るとどうなるんだろ? トッシュにチェックしてもらったり、ちょっとアート好きの人にもアピールするような言葉や人の名前を加えたり。。。笑。
日頃の会話では使わないようなボキャブラリーなどは、なるべく暗唱しておくように心がけました。
この涙ぐましい努力! こんだけのエネルギーで英語の教材でも売ってたら今頃は、お金持ちになってたでありましょう〜。苦笑
で、現実に話を戻しましょう! 先を急がねば。。。
えっと。。。。めずらしモノ好きな人が寄ってきて、グレイト!って褒められて、作品を見せる、、というところから、話が脱線しちゃいました。すみません。
そうしてるうちに、「何かいっしょに、やらない?」と、誘ってくれる人もたまに現れるようになりました。
その中のひとりに、見るからにファッショナブルなカメラマンがいて、「私の服をドイツの雑誌ために撮影をさせてもらいたい」と、言いました。
それで、これが「私がロサンゼルスに引っ越して、初めてのフォト・セッション」となりました。
スタジオに集まったのは、カメラマン、照明さん、モデル、スタイリスト、メイクアップ・アーティスト、それにセット・デザイナーまでいて、もうフルメンバー。
私は私で何着か持っていったのですが、服ごとにセットを変えたりして、雑誌の撮影にしてはなかなか大掛かりでした。
これが結果の写真です。
こうやって、後になってみると、ひとつひとつセットがあるわりに、写真が小さくて残念でした。それに、なぜか一つだけ、この場じゃない、ロヲザの写真が入ってます。まあ、いろいろと事情があったのでありましょうけども。。。
この撮影の時にちょっと驚いた事がありました。
スタイリストさんが、靴やアクセサリーなどを用意していて、それをズラ〜っと並べて、セットごとに、いろいろとその場でコーディネイトしておったのですが、あるシーンで、「セットと自分の用意していた靴の色合わない。靴がもうすこし暗い色の方がよかった。」と、思ったらしいのです。
で、どうしたかというと、
靴の上から黒のソックスをはかせたのです。
つまり
靴の色がちがう→靴の上からソックスをかぶせたので、それは黒い靴になった。
すごい。。。
このテクニックには恐れ入りました。
昔、岡本太郎がですよ、
「グラスのそこに顔があってもいいじゃないか?」といった。
つまり、
「靴の上からソックスをはいてもいいじゃないか?」ですよ。
フルショットだったから、ほとんどディティールは見えませが、
素敵でしたね。この大胆さ!
さて。っと、ここまできて、やっと本題ですが。
このセッションから、学んだ大きな事が二つ
気づいた事、その1。
ファッションとアートの微妙な違い。
何がアートで、何がファッションか? その境目というのは、本当に薄い。
どうでもいいくらいに薄いのですが、確実に存在するのだと思った。
どちらがいいとか悪いとかではなく、「アートよりのファッション、ファッションよりのアート」おそらく、その境目に自分はいるんだろう、と。
つまり、自分で「この服はアートだ!」と言い放っても、ファッション雑誌に、ファッション・モデルさんが私の服をきたら、それはファッションになるというコード。人によっては、どうでもいいような事ですが、私はこれ以来、この立ち位置を強く意識するようになってゆくのでした。
気づいた事、その2。
衣服というのは、着る人、メイク、ヘア、表情によって、ずいぶんイメージが変わるんだなぁって事。
なので、自分の作品は衣服だと豪語している以上、いちいち着る人によて、イメージが変わるというのは、何か不都合のような気がしたのです。
もっと服自体が強力なイメージをもっていて、誰が着ても、
イメージが変わらないような、そういう服が作りたくなりました。
そして、それが、物質的にも立脚するような。
つまり
人が着なくても、成立する着用物です。
これをスカラプチャーと呼ぶのか?あとになって、人から
ソフト・スカラプチャーとか、ウェアラブル・アートなどという言葉がある事を知りましたが、そういう、気の利いた呼び方は当時は知りませんで。
以上、2つの重要な事を学んだ結果、「作品を作るという覚悟」みたいなものが、芽生えました。
今までもそうですが、一つ一つ妥協しないで、時間をかけて制作していたのですが、ますます大量生産、大量消費されるような服ではない、なにか恒久的な魂の入った、霊性を感じさせるような服が作りたいと思うようになりました。
それ自体が一つのオーラを放つような。
誰かが着るから、注目される服ではない、それ自体が輝いている服。
そこに宿る魂みたいなものが、文字通り「ひとり歩き」するような。
目指すゴールは「オシャレな服」じゃなくて、「鳥肌が立つような服だ!」と思うようになった。。。。
服で鳥肌が立っても、いいじゃないかっ!
次回に 続く。
L*