(連載111)父について:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:2017 年
2017年に自分に起きた事で、
なるべく思い出したくない事があります。
心の深い部分に刻まれた痕跡。
書きたい事はたくさんあるのに、永遠にヒリヒリするような感触をともなって、流れてゆく感情をどこに導いたらいいのか、わからない。
だから、今でも、なるべく心に思い浮かばないように、避けている事。
それは、何だったかと申しますと、
父の他界です。
自分のこの回顧録も、もう100回以上。
1980年代からかれこれ、もう40年分になりました。
いろいろありましたが、その中で、母が亡くなった時のことは、ここに書きました。
国際結婚してすぐ、看病で帰国し、結局ふたりで1年間、実家のあった門司港で過ごしました。
それからかれこれ、約30年、
今回の、2017年の父の死去について、このNOTEに書くことができるだろうか?と、ずっと思っておりました。
そのくらいまだ記憶に新しく、思い出すとと涙が出てくるので、考えないようにしていましたが、
思えば、このNOTEに、自分の半生をこんなに、詳しく、どうでもいい事を、ダラダラ書きつづけているのに、自分の人生に起こった、(ある意味、誰にでも起こる事ですが)本当に大きな事、大切な事、心をえぐられるような事! これは避けて通れない!!と思い、
うわさ供養というのもあるらしいので、
今、ここに自分の父親の事を書く決心!をいたしました。
父は教師から、北九州市の教育委員会に進み、定年退職し、
その後は大学で教え、天皇から殊勲章という勲章ももらいました。
同時に、淡彩画をずっと描いていて、最初は日曜画家でしたが、だんだんと、地元で展覧会を開いたりするようになり、また、書道の先生の免許も取得して、近所の子供たちにお習字を教えたりもしておったのです。
と、書くと、なんだか、アカデミックで頭がカチカチの先生サマ?ですが、
実はまったくそうではありませんでした。
なんせ、アタクシの父ですから〜。笑
楽しいことが大好きキャラ!
自分が小さい頃、まだ門司港も景気がよく栄えていて、親戚もそこいら中にいたので、何かと集まり、飲めや歌えやの飲み会=パーティーをよくやってました。
お酒がまわると、おじさんがアコーデオンを弾きだして、うちの祖母が歌ったりとか。(民謡?みたいな?)なんせ、もちろんカラオケ以前ですよ。
そんな時に「出し物」を一番先にやるのは、うちの父でした。笑
たいてい「ドジョウすくい」でした。爆笑
ちなみに知らない方は、こんなかんじです。
(これは父ではありませんよ。笑)
こんな格好で、民謡に合わせて、川でどじょうをすくっている仕草を、民謡ビートに合わせて踊るという演目であります。
もう、見ている人は、拍手喝采!!盛り上がりは半端なかったです。
また、(これは本人からずっと後になって、聞いたのですが)
お役所でのバス旅行の時、みんなが乗車する前にひとりで、一番に先に乗りこみ、一番後ろに隠れる。
まもなく、みんなが集まり乗車が終わって、出発時刻になり「あれ? 先生がいない?」とみんながキョロキョロ探し始めた瞬間に、後ろからバーーーっと、変装して突然現れるとか、、、。芸が細かいです。爆笑
役所でもコレですからね。。。笑
まあ、こういう笑わせネタの話だけでなくて、基本的に全てに関して、徹底した楽観主義でした。
何を聞いても、一時が万事、
空気を読んだ、グルーブ優先のイエス!!!
これは、つまりある意味、何かに「反対する事」が苦手でした。
ダークな部分、影の部分に関するテーマや物事は、スルー。
そんな部分がみえると、蓋をして、ない事にする(苦笑)
まあ、ええやろ、ええやろ。と。
真剣に考えてない?笑
そんな父なので、母が亡くなってからも、ずっと一人でしたが、いつも周りにたくさんの人がいて、随分と人生を楽しんでいるように見えました。
ロサンゼルスにも何回も来ましたし、私も最低でも1年に一回は帰国するようにしてました。
年齢が進むにつれて、最終的にはホームにはいりますが、
その前に、一度、喉にガンがあるのが発見された時は、ヒヤヒヤでした。が、放射線治療で、なんとか切り抜け、完治しました。
本人は、「医者もびっくりしとる!」と皆に自慢してました。
どこまでも、明るい父でした。
しかし、まあホームにはいって、しばらくする間に、だんだん、体力も衰えてきて、少しずつ、コミュ二ケーションもできなくなり、、、、、
ホームから、病院に移りました。
そんなある日、弟から、「そろそろ準備をしといた方が、いいと、医者がいっている。」と電話がありました。
じゃあ、帰る。でも、タイミングは???
「それは来週かもしれないし、半年後かもしれない、それは医者にはわからない」とのことでした。
覚悟はしてましたが、 ついに。。。。!
それで、私は勝手に考えました。
父の誕生日が10月だったので、それまで、あと1ヶ月は絶対に大丈夫だろうと。
なぜなら、父は、むかしから、「自分は90歳までは生きる!」と言っていたからです。
その年、その日がちょうど90歳でした。
なので、その誕生日の1週間前のチケットを買いました。
そしたら、すぐに次の日に、もう「危篤」だと電話がありました。
え????
も、もう???
お誕生日まで、待っとってよ〜〜!!!と思ったのに。。。。涙
もう、そこからは、分刻みの行動になりました。
私は旅行会社のH I Sを通して、買っていて、
もうチケットの決済は済んでしまっていたし、しかも、土曜でオフィスはお休みでした。泣
ただ、万が一の緊急の電話番号があったので、もしかしたら、とそちらに電話して、メッセージを残しました。
そうしたら、すぐに返信があったんです。
そして事情を説明したら、お休みだったにもかかわらず、ものすごく親切な方で、すぐにチケットをキャンセルしてくれました。(ホッ!)
そして、明日、日本に行ける便で、空席がある便はありますか?と聞いたら、調べてみます。ということで、そのまま、しばらく待っていたら、
明日ではなく、本日!
今から5時間後の便!!
それで、そのまま、すぐ、私はロサンゼルスの空港に行き、その日のうちに日本への飛行機にのりました。
羽田には、義理の弟が私を待機していて、
「まだ、間に合う!」 と。
昨日の夜の3時に、親戚中が集まって、今ベッドを囲んでいるという報告。
ターミナルからターミナルに、彼の車で移動して、JALのカウンターについて、そこから一番早い国内便が、奇跡的にもう搭乗が始まっていたのですが、間に合って、それに乗りました。
飛行機の中から見える雲海はとてもきれいでした。
間にあうか?
絶対に間に合う!!と信じました。
しかし。
北九州空港に私の乗った飛行機が着陸した時刻、、、、
同じ時刻に、父は逝きました。
間に合いませんでした、、、、、。
ロサンゼルスは、なんて、遠い!
自分はなんで、あんな遠いとこまで、いってしまったんだろう? と、その時ばかりは、心から後悔しました。
病室についたら、まだ父は暖かかったです。
わずか20分の差でした、、、、。
妹が言いました。
「お父さんは、昔から待つのが嫌いだったから、空港にお姉さんを迎えに行ったんよ〜。全く同じ時間だったからね。」た。
号泣!!
そうやった、そうやった。
お父さんは昔から待つのが嫌いやった!
ずっと、ずっと、いつも私が日本に戻るたびに、毎回空港まで迎えにきてくれとった!
だから、空港に来とったんや!!
飛行機の到着時刻と父が他界した時間が一致していたのは、偶然ではなかったと信じてます。
父の絵です。これはほんの一部ですが、
父は、教えるのが上手で、ユーモアのセンスもあり、会話も楽しい。何をやってもいつも新しいアイデアがありました。
昔は、新聞記者になりたかったらしく、そのせいか、家族旅行のアルバムを毎回コラージュのように作ったり、ゴルフの会合を、自分の名前の「清水杯」と名づけて、会報を出したり、
また、先生仲間と体育教育についての勉強会を企画したり、近所の子供とバーベキューをやったり、、、、、
もう、企画だらけの人生。。。。
だから、何をやっても、いつも周りに人も集まっていました。
みんなから愛されて、いつも、清水せんせー、清水せんせー、ってチヤホヤされて、それが大好きだった!!苦笑
晩年になって、妹と私が、父に会うたびに
「お父さん、思いっきり人生をエンジョイしてね。
私らにお金残そうとか思わんでいいよ。(もともと、そんなにないのだが)
今、持っとるお金、全部、自分で使い切っていいからね!!!」
と、言ってたら、
アンタ達ね!!いつも、同じことを何回も言って、うるさいよ!!
もう、 とっくに、 し と る !!!
と逆ギレされました。爆笑
そこまで豪語するくらいなので、本当に幸せな人生だったと思います。
そんな父を誇りに思います。
だだ、この父の最期を看取れなかった事を思い出すと、今も心がヒリヒリしてきて、胸がいっぱいになりますが、
父との記憶は、楽しい思い出コーナーの引き出しに、そっといつまでも置いて、たまに覗いて、感謝しながら、クスクス笑いたい、、、
〜そう思うようにしようと、考えるようになった今日この頃です。
読んでくださって有難うございます。
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