【第一話】生い立ち~ネットワークビジネスに出会うまで
岡山県美作市という、県内で最も人口の少ない市出身。
実家の周りは野生の王国。
鹿、猿、タヌキ、キツネ、熊・・・
昔兄貴が、「今熊が目の前を横切ってます」
とメールしてきたことが忘れられません。
↓地元。近所に宮本武蔵の生家があります。
小学校ではソフトボールに夢中。
小6で身長163cm、エースで4番。遠投は県北の記録を持ってました。ちょっとモテモテ。
中学時代、ちょい悪に興味を抱いた私。
とはいえ学校でたばこ、ピアスで登校する程度。振り切った悪さはできませんでした。
部活は野球、エースで3番。
勉強も多少できまして、、、ここでもモテモテ。
ヤンキーの集いにもたまに顔を出し、
これ以上はいけん!(ダメという方言)
というときは「俺はええわ」と帰る、要領のいい奴でした。
高校は野球の強豪校に行くことを考えましたが、
進学校に行け。という父親のことばで進学校に行くことになりました。
そう、案外素直なんです私。
しかし、人の価値観に左右されるのはこの頃からあったのかもしれません。
他人ではなく自分はどうしたいのか。
こう考えられるようになってきたのはつい最近のことなのです。笑
高校は序盤から無期限謹慎スタート。上々の滑り出し。
お巡りさんとじゃれあってただけなのですが、無期限謹慎というお沙汰。
しかし、30年以上町会議員を務める祖父がこの軍配に物言い。
明くる日学校に乗り込み、校長&教頭に説教。そして謹慎が解けるという、漫画のような結果に。笑
(非は私にあることを祖父はもちろん知らず。校長&教頭はさぞかし私を恨んだでしょう。)
去年春に91歳で亡くなった祖父は、いつも天才的なスピーチで聴衆を魅了していました。
物心のつかない私にも、風格、力強さ、言い切り、自信、全てが伝わってきました。
「あれうちのおじいちゃん!!」と大声で自慢したものです。
平成天皇の前でもスピーチをし、直にお声がけいただいたこともあるそうです。
そして70歳を超えたとき、皇居で紫綬褒章を授与され大変な栄誉だと喜んでいました。
祖父が私に残したことばがあります。
「7割を響かせなさい」
この時私は20代前半。
「7割か~。確かに7割なら当選確実じゃもんな~!」
こう答えた記憶があります。
この程度の解釈しかできませんでした。
全員から支持されるということはない。
価値観は人それぞれなんだ。
人にどう思われているか、人の価値観に左右される私へのメッセージだったのでしょうか。
「これを教えてくれとったん?」
このブログを書きながらこう祖父に話しかけています。
代々貧乏だったうちの家系は祖父を機に大きく変わった。親父はこう言います。
裸一貫で築いてきた祖父は一族の英雄でした。
俺がんばるけんなー!!どうか安らかに。
謹慎明けにラグビー部へ。
フラフラしていた私を心配した顧問から半強制で入れられ、あれよあれよという間にまんまとハマってしまい、、、
マジメな部員たちの中で喫煙者は私ともう1人だけでしたが、この2人が県の代表に選ばれました。
中型バイクの免許を取ったのも高校の頃。
暴○族ではありません。
暴走も抗争もしてません。
健全なツーリングサークル所属です。
そして大阪の大学へ推薦進学。
なんで俺を推薦するんだろう?
ラグビーの県代表といい、推薦の基準ってなんだろう。
とは微塵も考えず、私なら当然だと思っていました。笑
そう、岡山にいる時は重度の自信過剰でした。
しかし。
大学では急転直下、まったく友達ができなかったのです。
泣きながら実家に帰ったこともあります。
このとき初めて孤独、挫折を経験しました。
今までの人生はいつも自分の周りに人が集まりました。
どこに行っても自分には人が集まってくると思っていました。
しかし大阪に出てからは誰にも声をかけれない自分がいたのです。
田舎者、方言、無視されるんじゃないか。
これがいつも頭をよぎります。
結局私は環境に恵まれていただけなんだ。
井の中の蛙だったということか。
この孤独と挫折の経験がトラウマになっているのでしょう。
独りぼっちになってしまったらどうしよう。
今もその恐怖があるのです。
と同時に、
帰る家、待ってくれている家族がいることのありがたさに気付けました。
大学生活3年目からはゼミをきっかけに友達が急激に増え、やっと大学生活が始まりました。
ちなみに単位は3回生までにほぼ取得済。
抜け目はありません。笑
そしてろくに就活もせぬまま、最終的に伯父のコネで某大手広告代理店に就職。
社会人生活が始まり、立派に生きていこう!と思ったのも束の間。
たったの3か月で辞めてしまいます。
そう。ネットワークビジネスに出会ったしまったせいで・・・
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?