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-------- いざ行(ゆ)かん  -------- -------- Short Story 2ー2 --------

満月に雲がかかっていく。
遠くに犬の遠吠えが聞こえる。
旅籠もそろそろ眠りに入る。
三平は旅籠の名前を記した提灯に灯りを入れた。

今晩は薩摩の侍が初めて泊まっている。
主人が番頭に言っている。
「薩摩人も道理はちゃんと通じる。良かった。やはり噂は当てにはならんな」
「そうですな、薩摩と聞いて言葉が通じるかとも案じましたが、前屋敷様がおられて助かりました」

「うん、それもまたお人柄がようて良かった」
「しかし前屋敷様以外の方々の言葉はわかりません。京とか江戸とかはわかりますが、それ以外はさっぱり」
三平が暖簾を外してたたんでいる。

「それにしてもこのところ、街道を通る侍や浪人のような脱藩者らしき姿が目に付くようになったの」
「黒船がきっかけになったのは確かです」
「この前の南蛮人もそうじゃったが、今まで見たこともなかったもんが増えてきておる。何かが起きる兆しかもな」

 宿場でも、どの旅籠も客が増えている。
三平の旅籠も同様で日ごろは万一に備えて空けておく二階の外れの広間もいまは薩摩の侍たちが入っている。
小さめだが広間なので、まだ五六人ばかりは余裕で入れるが、何しろ相手は侍、それも薩摩だ。

あとから来る客も同宿が薩摩の侍と聞くとみな尻込みして断る。
おかげで今晩も二組の客を逃がしてしまった。
「仕方ない、侍が五人でそれも薩摩となれば誰でも遠慮するわいな。薩摩は地の果て、異人と思うておるもんも多いからの。まあ、こういう日もある」

と主人が言うと番頭が続いた。
「それでも薩摩様はさすが大身です。薩摩人の気性なのかわからぬことがあっても悠然としておられます」
「田舎の小大名のほうが些事にこだわり、厄介なことばかり言いよる」

番頭が三平や文治を見ながら言った。
「先月に泊まられた小山様だったか、用人殿以下家臣の方々に泊まっていただきましたが、銭に細かくて酒の肴にまであれこれ注文を出され、出ていかれるまで細かく算用されておられましたな」

すると文治が言った。
「ああ、あの小山様、家臣の方々も身に付けているものもみな地味で、あくる日の出立のとき、かついでいた箱もだいぶくたびれ、ほころびもありました。お大名も銭次第ですね」

主人が笑いながら言う。
「そうじゃな、侍である以上は見栄も張らなきゃならんし、銭を払うときも余裕を見せねばならん。そのくせ陰では徹底的に値切りよるけどな」
主人はそこで声を小さくして言った。

「しかし薩摩様くらいになればさすがに違う。国表のお侍がたもきちんとしておるし、あの前屋敷様の身なりも江戸詰めとはいえ、小藩の者とは違う。薩摩の石高は公称75万石じゃが実質は90万石はあろうという噂じゃ。琉球交易で支那ともつながっておるらしいしな」

三平が言った。
「油問屋にいたときもお侍が銭を中々払わず、たまりかねて主が請求に出向くと刀の柄に手をかけて脅されたことが何度もありました」
「しかし、これで薩摩様にも縁ができた。いまや幕政にもかかわり幕府も無視はできぬ存在じゃ。明日の出立までくれぐれも粗相のないように気をつけてな」
「承知しております」

「ところで今夜の番は番頭さんと三平じゃったな」
「はい、二人で務めます」
「もう空き部屋もないし、誰が来ても泊めないようにな。薩摩様がおる広間はまだ余裕があるが、夜中に起こすこともできぬし」
「承知しております」

文治が言った。
「戸口を閉めますがよろしいですか」
「ああ、ええ、閉めておくれ。小口だけは開けておくようにな」
「はい」

「それじゃ番頭さん、三平、わしゃ奥にいくであとは頼むわ」
「ご苦労さまでございました」
今晩の寝ずの番は番頭と三平の二人だ。
戸の小口は万が一誰かが来たときのためで、小さなくぐり戸になっており、腰をかがめれば大人でも出入りできる。

主人も文治も奥に引っ込むと、じきに番頭は帳場でうとうととし始めた。
こういう夜の務めは上の者はゆっくりして下の者が働くようになっている。
三平は木刀を腰に差し屋内の最初の見回りの支度をして最近現れてきたカンテラを持って外へ出た。

旅籠は庭も広くて外との境は柘植の植え込みだけのところもある。
たまに酔っ払いや怪しい奴が庭に入ってくることもある。
左右も裏もみな旅籠で細い路地で別けられている。
路地を歩くと人の声がかすかに聞こえる。

ポツポツと雨粒が落ちてき始めた。
「雨か・・」
サァーと降り始めた。
一応は見廻ったので帳場に戻った。

行灯の灯りに居眠りしている番頭の顔が浮かんでいる。
三平は起こさぬように静かに屏風の陰に敷いてある布団に座った。
ここからが睡魔との戦いだ。
あとでまた見回りをしなければならず、壁にもたれて目を閉じた。

サーッと降る雨の音が壁越しにかすかに聞こえる。
すると壁の向こう、表の通りに人の気配がした。
壁に耳をやると雨に濡れる道を歩くかすかな足音と人の声が聞こえる。
どうやら店の小口の辺りに数人立っている。

旅籠の提灯は一晩中灯りが灯っているのでそれを見てきたのだろう。
三平は緊張した。
木刀を持ってそっと小口に近づいた。
じっと耳をすますと小口の向こうで何か話している。
・・・何者・・・・・

すると向こうは小口の戸をいきなり強くたたいた。
ドンドン、ドンドン。
三平は小口の戸板越しに答えた。
「どちら様にございましょう」

「仲間にケガ人が出て難儀しておる。開けてくれぬか、医者がいる」
侍言葉だが、どこかちょっと違う、と三平は思った。
言葉に訛(なま)りがあり、どうやら陸奥のほうの者らしいが、怪しさは感じない。

三平は番頭に言わずに小口の戸を開け、下から侍を見上げた。
表の提灯の灯りに侍の影が浮かんでいる。
みな旅姿、何人もいるようだが、一人背中に人を背負っている者がいる。
「ケガ人は背中のお方ですか」

「そうじゃ」
「しばしお待ちください」
三平は番頭を起こした。
「番頭さん番頭さん起きて・・」。

「ああ、どうした・・・・侍とな、部屋は空いておらんぞ」
「はい、ただお一人がケガをされておられるようです」
「ケガ人か、それはいかんな」
三平と小口に行った。

「背中のお方が」
「そうじゃ」
「で、どのようなお怪我で」
「マムシに噛まれたようじゃ」

「マムシに・・」
「日暮れ近くに小用をすませて草むらから出るときに噛まれたらしい。苦しんでおる、宿場に医者はおるか。われら怪しい者ではない、陸奥は会津松平の家中の者じゃ」
「会津の松平様・・」

この旅籠に会津の者も泊まったことはない。
番頭は三平に言った。
「三平、医師の源庵さんを連れてきてくれ」
三平は旅籠を飛び出した。

「医師は宿場の奥にいますので、すぐにまいりますから」
「かたじけない」
番頭は主人を呼びに奥へ行った。
「会津・・・松平様、十人連れか・・多いの、薩摩の次は会津か、おまけに十人とは、倍ではないか。えらいことにならねばええが」

「マムシに噛まれたお方は若いお侍ですが、かなり苦しそうです」
主人はすぐに表に出た。
見るとみなが立ったまま主人を見ている。
框にも座っておらず、おんぶされている侍もそのままだ。
(これまた何と律儀なことじゃ)

主人はこれ一つで会津の侍だと確信し信じた。
「ここへ横に」
とりあえず座布団に頭を乗せて帳場の板間の上で横にならせた。
「ウウぅウウッ」と生汗を流しながら苦しんでいる。

「薬も無く、何もできぬままここまで来た」
「しかし医師も塗り薬程度しかございませぬが」
「ああ、良い、会津にもマムシはおるし医師に診てもらえば、それだけでも助かる。塗り薬だけでも良いし、あとは本人の生きる力に任せるしかない。

申し遅れたが、拙者会津松平の家臣で佐藤庄五郎と申す。江戸より参って京に行く途中じゃ。この者たちは総て国表から出てきた者ばかりでの、中々言葉が通じにくいゆえ間違いがないように拙者がついてきた。
ところで主殿、ケガ人もおるし、みなくたびれておる。部屋は空いておるか」

「申し訳ありませぬが今夜は埋まっております。明日になれば部屋は空きまする。ただ」
「ただ何じゃ」
二階の広間がまだ空きがありますが、すでに他家のお武家様が五人ほどおられます」

「どこの家中か」
「薩摩様にございます」
佐藤は他の者を見ながら一瞬黙りつぶやいた。
「薩摩・・・か」
佐藤の悩む姿が浮き上がってきた。

いまこのとき会津と薩摩に表立って諍いは無い。
だが会津は親藩、薩摩は外様、幕府への姿勢も天地ほど違う。
そもそも会津松平の祖である保科正之は江戸幕府三代将軍家光の異母弟だったが、その家光の温情によって正之は会津松平の家を立てることができた。

家光の策でもあったのだろうが、会津松平にとって徳川幕府は大恩人なのだ。
その恩義を忘れず、会津松平は徳川に代々にわたり忠誠を誓い幕府に寄り添ってきた。
いわば会津はゴチゴチの親幕、親徳川派なのだ。

だが薩摩島津は違う。
関ケ原においても徳川と対立し、そのあとは姿勢を低くして家康に恭順の意を示し、巧みに今日まで生きのびてきた。
家康も九州の果てまで遠征しては徳川がもたぬと思ったのだろう。

石田三成の策に乗せられ、関ケ原では西軍の大将にさせられたあげく、敗戦の末に中国五県と瀬戸内海の太守から、いきなり長州一国に封じ込められた長州毛利家と薩摩島津は似たようなものだ。
島津と毛利の底流に流れるのは二百数十年にわたる徳川への怨念なのだ。

ましてや黒船が来て時代が動き、倒幕の種火がブスブスと燃えているいま、薩摩の本心は会津松平なんぞクソくらえであることは容易に推測できる。
加えて会津は「ダメなものはダメ」という鉄のように硬い性癖だが、薩摩は粘土のように自在に形を変えられる南国人らしい性癖で、真逆の生き方だ。

(二階は薩摩か、わざわざもめ事を起こすこともなかろう・・・・)
佐藤は主人に言った。
「薩摩は明日は出るのであろう」
「はいご出立になられます」

「いずれにせよ夜中じゃ、二階に上がるわけにもいくまい」
主人も薩摩と会津のことは知っている。
助け舟を出した。
「わたしが私用に使っております部屋なら狭くはございますが、とりえずは使えます。廊下も使えますし、夜具もご用意できます。皆様はそちらでお休みになられては。今晩はこの宿場もみなお客様でいっぱいで、お宮お寺の境内や飲み屋などで休んでいる旅人も多くございます」

「うん、迷惑かけるが、それで頼む」
「お怪我をされているお侍様もそこまで動かしましょう」
番頭が店の者を五人ばかり呼んできた。
手代がかかえてきた布団を敷き、ケガ人を乗せ、四人でずるずると移動させた。

女中も三人やってきてお湯や茶の用意を始めた。
「すまぬの、助かる」
「困ったときはお互い様にございます」
他の侍は静かなものだ。

(陸奥のお侍らしいわい)
と主人は会津の侍にも好感を持ち、ケガ人と佐藤たちを交互に見ている。
女中がムスビや梅干し、漬物を大皿に乗せて運んできた。
会津一同に笑顔が戻った。
静かだったのは、腹が減っていたせいらしい。

口々に言った。
「ムスビが・・・腹がへってだで」
「たすがった。いだだきまする」
主人は思った。
(南の薩摩も、北の会津も、純のひと言か・・)

後の戊辰戦争で薩摩は長州とともに会津と戦い続け、最後には会津の城も焼け落ちることになるとは主人は思いもしない。

そこへ三平が医師の源庵とともに帰ってきた。
源庵は言った。
「あいにくと塗り薬が切れておったが、飲み薬があった」
主人は怪訝(けげん)な顔をした。
(そんな飲み薬なんぞ見たことも聞いたこともないが)

すると源庵は、袋から黒い粉のようなものを取り出してそれを煎じケガ人に飲ませた。
主人はそれを見て源庵を見ると源庵と目が合った。
主人は「おい源庵」と思ったが、もちろん言葉にも顔にも出さずに思った。

(源庵のやつめ、あれは腹痛を起こした客にいつも飲ませておる腹薬ではないか。病は気からとよう言いよるが、マムシの毒に気は効くまいに、この野郎)
源庵は言った。
「この薬、よう効く者と効かぬ者がおりまする。このお侍様が効くお方ならよろしいのですが」

主人はまた思った。
(都合のいいこと言いやがって。効くわけねえだろう、腹の薬なのに)
しばらくすると会津の者がケガ人を見ながら言った。
「薬が効いだが、呼吸が戻っておるようだが」
主人はまた思った。
(そりゃないと思うわ、会津様よ)

だが不思議なもので気のせいかケガ人は少し痛みが和らいだようにも見える。
そのうち周囲の者も言い出した。
「少しばっかり落ぢづいだが、よがった」
源庵が言う。

「病持ちや老人あるいは小さき子どもであれば、たまに死ぬ者もおりますが、お侍様のように鍛えておられれば死にはいたしませぬ。あとはしばらくの養生で元に戻られましょう」
源庵が佐藤に言った。

「三日は動かせませぬゆえ、うちでお預かりいたしましょうか」
主人はまた思った。
(こいつ、会津と聞いて養生で稼ぐ気じゃな)
佐藤がこれがまた人がいい。

「助かる、ならばそうしていただこう。でかかりはどれほどか」
「どれほどおるかで決まりますが、おおよそで」
「ならば先に相応のぶんだけ置いていく。付き添い二人のぶんも」
話はまとまった。

源庵は銭を袋に入れながら言った。
「大きなマムシではありますまい。右足の小指の付け根に小さな穴が二つあり、それが噛まれた跡にございます。まだ夜道で足元も暗い。明日の朝まで待って陽が上がるころに、こちらで人を出してお迎えに参ります」
「おお助かる、わかった、そうする」

下の騒ぎを知ったのか、二階から泊りの客が階段にも座って大勢で見ている。
主人が見上げると薩摩の者とともに前屋敷もいた。
主人と目が合うと前屋敷たちは静かに部屋に戻っていった。

それに気づいた会津の者が小声で話している。
「あれが薩摩だど」
「島津が・・。われらど、顔づぎがまるで違うの」
「異人には見えんがの」

「剣は示現流か、どだ剣法が、見でえものじゃ」
「斬るごどしか知らず、守るごどは考えねえんだと」
「鹿児島は海が青いんだど」
「薩摩のむごうはアマミ、それがらリュウキュウ、そのむごうは南蛮じゃ」

 明くる朝になった。
まだ薄暗いが山の端の空がわずかに明るくなに始めている。
若い侍はまだうなっているが、昨夜のような激しい痙攣や苦しみはないようだ。
「さすが鍛えておられるようじゃ、治りがことのほか早いな」

「よがった、よがった、昨夜はどうなるごどがど」
番頭が言った。
「医師の薬が効いたのかもしれません」
主人は思う。
(源庵の、あのええ加減な薬で良うなったのか、まさか・・・)

すると上から前屋敷ともう一人、一番でかい侍が階段を下りてきた。
二人とも脇差を腰に差し、大刀は腰につけるように左手で持っている。
いつでも抜けるぞ、といわんばかりだ。
それを階段下から見上げている会津の者たちも知らずのうちに身構えた。

主人たちもだが、三平も緊張し、自然と後ろに下がった。
階段の周りは自然と人が退いて空間が生まれた。
総ての者が薩摩と会津を知っている。
何がきっかけで旅籠中に血が飛び散りかねない。

前屋敷たちは階段を下りると辺りを見回し、上がり框に戸板に寝かされている侍を見た。
三平たちが二階を見上げると薩摩の残り三人は他の客に混じって下の様子を見ている。

何か起きれば、上から駆け下りて体重をかけて一気に会津の者を斬り下げる気だろう。
薩摩は相手が倍の人数でもひるまない。
関が原で孤立したときも、東軍のど真ん中を斬り抜いて逃げ延びた武勇伝は全国に鳴り響いている。

だが会津も構えた。
会津には剣の流派が多く、家臣の剣法は一歩一歩すべるように右左と剣をさばきながら近づき斬る剣法だ。
一気に斬り込む薩摩の示現流とは真逆のような剣法だ。

会津の者はみなが刀を腰に差している。
見ればケガをしている若侍までもが寝ながら刀に手をかけている。
主人もいままでにないほど緊張した。
だれかが下手なことを口にすれば、それを機に一気に血が飛び散るような状況だ。

ここで斬り合いが始まればケガ人はむろん死人も出る。
何よりも泊まっている客にも被害が出るのは否定できない。
主人は必死で平静を装いながら薩摩の前屋敷と会津の佐藤の二人を見ている。

会津の佐藤が先に言った。
「拙者、会津松平の家臣にて佐藤庄五郎と申す。以後お見知りおきを」
「これはどうもご丁寧なことで痛み入る。拙者薩摩は島津の家臣にて前屋敷信一郎と申す。以後お見知りおきを」

佐藤が続けた。
「昨晩から騒がせて申し訳ない。お聞き及びでござろうが、仲間の者が昨日にマムシに噛まれましての、薬も無く手当てもできぬまま、ここまでやってきもうした。昨晩にやっと医師の手当ても受け、今日はこの者を医師の家に預けるつもりでござる。

夜通しの騒ぎで眠れなかったのではござらぬか、申し訳ない」
会津の者はそろって頭を下げた。
すると前屋敷も頭を下げながら言った。
「いや大変でござったな。マムシに噛まれてはさすがの会津の方々もたまるまい。お察しいたす、あとは一日も早い快癒をお祈りいたす。ご丁寧なお言葉で当方こそ痛み入ります」

場は和んだ。
主人もほっとしたが、三平たちもホッとした。
薩摩の者も小声で話している。
「会津にもマムシがおっとな」

「会津か、あん保科ん、田舎もんめ。いまも徳川につき従うちょっとか」
「京が荒れちょっど行っちゅうどん。新選組とかいう無頼んもんで組をつくっちゅう」
「会津の剣法は何流か強かとな」
「おめないしちょッ、はよせんか、まんがくっど」

「朝餉の御支度がもうじき出来まする。薩摩のお方は下の広間にてお仕度いたしまするが、会津の方々には昨夜申し上げている通り、そちらの部屋で朝餉をとっていただくようになりますが」
「ああ、よい、それで良い。戸板の者には医師が言うておったように粥を出してやってくれ」
「はい、承知しております」

まだ陽は登りきってはいないが、朝餉が始まった。
三平たちは客の間を回りながら朝餉の手助けをしている。
薩摩はさっさと食事をすませ二階に上がった。
すぐに旅支度を整えて江戸に向かうつもりだ。

医師の家から五人ばかりがやってきた。
戸板の侍を運ぶ人夫たちだ。
会津の佐藤が言った。
「おう来てくれたか、本人はまだ苦しんでおるで、静かにの」

「はい、承知しております。マムシに噛まれたもんは何度も運んでおりますので」
二階の薩摩が階段を下りてきた。
会津と薩摩は軽く会釈を交わした。
他の旅人も一緒で玄関が一気に賑やかになった。

主人は疲れ切ったような顔で番頭に言った。
「やれやれ何とか無事に済みそうじゃ。一時はどうなることかと思うて気が遠くなるようじゃった」
「ほんまに、みなも安心したことでしょう。ご苦労様でございました」
番頭の最後のひと言で主人は気が抜けたようになった。

「みなが出ていったら、わしゃ二年前から断っていた酒をちょっとだけ飲もうと思っとる。いやあホンマに侍は・・・疲れる」
「それも片や薩摩、片や会津でしたからな」
「まあ何も何も無くて良かったわい。今日の昼はちとふた時ばかり休むか。客用の茶菓子があるからあれをみなに配ってくれ」
「ああ、ええですね、みなも喜びましょう」

「やれやれ」と主人は言いながら番頭に言った。
「こういうときはの、なぜか、また何か起きるのよ」
「もうみなご出立されます。何もありはしませぬよ」
と番頭が答えたそのときだ。

暖簾をくぐっていきなり旅姿の侍が七、八人入ってきた。
前の侍が主人を見ると大声で言った。
「おう、元気であったか、久しいの」
それを見た主人は口をあんぐりと開けたまま絶句した。

それを薩摩も会津も見ている。
入ってきた侍は大声で言った。
「忘れたか、わしじゃ、長州毛利家の吉田じゃ」
薩摩と会津は一瞬身構えた。

三平が見ると、主人は筆を手にしたまま、ゆっくりと後ろに倒れた。
気絶したらしい。


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