朝子と魚吉 ----------- Short Story ----------
夏の朝、入り江にある漁師町。
一本釣りの漁師である魚吉は漁にも出ずに家で酒を飲み始めた。
魚吉は本名ではなく屋号だが、誰もが魚吉、魚吉と呼んでいる。
「アンタ今日も出ないの」
と酒の肴をつくりながら言ったのは女房の朝子だ。
朝子の実家は車では片道およそ1時間ほどかかる隣県だ。
父親は公務員でそういう家庭で育った。
公務員の娘が漁師の家に嫁ぐのも珍しいが、魚吉と朝子に縁が出来たのはダイビングでの出来事が始まりだった。
朝子は海が好きでダイビングを始めた初心者のころ、ダイビングショップの客としてグループで岩場で潜っていた。
このときうっかりはぐれて深場に入ってしまい、死にかけたことがあった。
浅場で潜るダイビングだったため重めのウエイトをつけていたのも災いして沈み始めたのだ。
下は真っ暗な闇、恐怖が先に立ってパニックになった朝子は、蹴って上がることもライフジャケットにエアーを少し入れることも忘れてそのまま沈んでいった。
このときガイドも他の客も気づかずそのままいけば死んでるところだったが、そのとき沈んでいく朝子を見つけたのがショップのサポーターで潜っていた魚吉だ。
魚吉は一気に追いかけ、朝子のタンクベルトをつかんだ。
このとき深さはすでに20メートルを超えていた。
魚吉は朝子のタンクベルトをつかんだとき、マスクの中の朝子の目が恐怖に怯えていたのをいまも覚えている。
二人はライフジャケットにエアーを入れながら浮上して事なきを得た。
それがきっかけで朝子は死にかかった深場が近くにあるのに、その後も何度かダイビングに訪れた。
「避けていたら、恐れたままで終わるから」と言ってその後は何度か自分でその深場にも行っている。
ショップの者も漁協の者も感心するほど根性のある朝子は、そのうち魚吉と付き合い始めた。
公務員の娘と一本釣りの漁師、そのうち相思相愛になって一緒になった。
とはいえ朝子は町の女で親は公務員だ。
どうなるかとこれも周囲は気にしていたが、朝子はすんなりと漁師町に溶け込み、今じゃ老人たちからも頼りにされるくらいになっている。
一方の魚吉も器用な男で一本釣りが本職だが、あれこれ船とかエンジンとか潜りのこととか漁協のことから朝市のことまで何でもやるので仕事に困ることはない。
いつ見ても何かしているのが魚吉だ。
だが本職が外海に出ていく一本釣りなので、気象や気分でどうしても空きができる。
そうなるともう動かない。
動かないほうがいい日もあるのだが、朝子にはそれは分かりづらいし、魚吉も一々言い訳はしない。
「潮がの」と言いながら今日も朝から酒を飲み、漁師のくせに魚を買ってきて家で飲んでいる。
「漁師でしょ。魚は買うモノじゃなくて釣ってくるものでしょ」
と皮肉交じりに朝子が言う。
朝子の言い方にはトゲが無く、それで済むことも多い。
ただ朝子は酒は飲まない。
町の育ちで公務員の家だったせいもあり、亭主とはいえ魚吉が朝から酒を飲むことだけはいまも我慢ができない。
それに魚吉はこのところ一週間も漁に出ていない。
さりとて船の手入れをするでもなく、家でゴロゴロしている。
一本釣りの漁師でいわば一人親方でもあり、気が進まないと、ときたまこういう時があるのだが、そうとは知っていてもつい口に出てしまう。
「アンタさ、漁に出たくないなら家にいて酒を飲むよりパチンコにでも行ってよ。周りはみんな漁に出てるのに、わたしも昼からは漁協の加工場で婦人会の仕事があるんだから。『一本釣りの魚吉』でしょ、ちゃんとしてよ」
その『ちゃんとしてよ』の言葉に魚吉が引っかかった。
「俺だってのんびりしたいときはあらあね、食えるほどはちゃんと稼いでんだからいいだろうがよ」
日ごろはこの辺りで終わるのだが、なぜか今日は魚吉も朝子も引っ込まない。
「わたしさ、我慢していたんだけどさ」
「何だよ、日ごろと様子が違うじゃねえか」
「あんたさ、何を買うのもいいけどさ、大きなものを買うときは、わたしにひとこと言ってよね。車また買うんでしょ」
「何で知ってんだよ」
「車屋の田中さんが昨日の夕方電話してきたわよ。明日つまり今日だけど車が入りますから、てね」
「何でお前それ黙ってたんだよ」
「わたしも忙しいもん」
「今日の何時ころだよ、田中何て言ってた」
「朝方の9時くらいて言ってた」
「お前、いま何時だと思ってんだよ」
「11時よ」
「ガビーン・・・知ってやったな、ちょっと行ってくる」
「今度の車いくらなのよ」
「大したことはねえよ」
「何で買う前にひとこと言ってくれないのよ。船のエンジンも要るものとはいえ、いきなりわたしのところに請求書がくる。いつもそう、みなそう、わたしには相談のひと言も無いままいきなり請求書だけがとどく。今度はいくらなの」
「うう、えっとな、込みこみで400万くらいだったかな」
「へえ、あんたわたしにウソつくのね。田中さんに聞いたら570万だって言ったわよ、頭金も入れてもらえるって言ってたわよ田中さん」
「あのヤロー」
「どうせすぐバレるのに、田中さんにアノヤローはないでしょ」
「ちょっと出てくらぁ」
「どこへ行くのよ」
「ちょっと」
「田中さんところでしょ、あんたさ酒飲んでるのに、飲酒運転したら車どころじゃないわよ。事故でも起こしたら最後よ」
そこへ電話がかかった。
「ああ、田中さん、主人は今日は漁に出ましたから明日うかがうと言ってました」
「オイッ」
「ウルサイ!」
電話の向こうにも聞えたらしい。
「ああ、主人ですか、いまから漁に出るところです。じゃ明日ということで」
「オレへの電話だろうが、勝手に受けて勝手に断るなよ」
「わたしさァ、いつも言うけど、朝っぱらから酒を飲むのはやめてよ」
「これはおれの唯一の楽しみなんだ、知ってんだろうが、口を出すな」
「あんたの楽しみなら他にいくつもあるじゃないよ」
「ウルサイ!」
「何よすぐにウルサイって、いつもそれ、男のやることに口を出すな、なんて言って、その後始末をするのはいつもわたしじゃないのよ」
「とにかく黙れ」
「とにかくて、何がとにかくなのよ」
「屁理屈言うな、これだから町の女は困るんだ」
「町の女」
朝子の表情が変わった。
魚吉もそれに気づいた。
(まずい、まずいことを言ったな、謝るか)
「へえ、あんた今もそう思っていたんだ。町の女かァ~」
魚吉はこの場の収め方がわからない。
何より仕事柄こういう場面は経験が浅い。
朝子もつい一歩踏み出してしまった。
「確かにわたし町の女よね~、ここには不似合いの女なんだ。ここにいちゃいけないのかなァ」
(そういう意味で言ったんじゃない。取り消して謝まろう)と魚吉は言おうとしたが、酒の勢いもあってなぜか手のほうが勝手に出てしまった。
パチンッと音がした。
朝子は頬をおさえながら魚吉を見た。
魚吉は朝子を初めてたたいた。
『マズい』と思ったがもう遅い。
魚吉は自分を恥じながらじっと手を見た。
朝子は魚吉を見ているが、涙ぐんでいる。
朝子は魚吉の言葉を待っているようだが、魚吉はどうしたらいいかわからない。
謝ろうと思ったら今度は違う言葉が口から出た。
「船に行ってくる」
言った手前、行くしかない。
玄関のガラス戸を静かに閉めたはずなのに、こういうときに限ってなぜか大きな音がする。
ガチャンッ!
「エエッイ、ウルサイ! このクソ玄関め」
出ていく魚吉の背中に朝子の声がかぶさった。
「帰ってくんな!」
近所の年寄りが言った。
「おう、またケンカか、朝から飲んでたんだろ。朝子さん、よくやってる。大事にしなきゃ捨てられるぞ」
魚吉は年寄りに手を振りながら港へ向かった。
(チキショ―、今日はもう家には帰らねえ、朝子に心配させてやるわ)
魚吉は漁の支度は常にしてあるので船に乗り込み沖へ出た。
とはいえ今日は潮も期待できず何を目的にして出たわけでもない。
気晴らしにと進んでいたら陸が遠く霞んでいる辺りまで来ていた。
「何でもええわ、とりあえず竿出しとこう」
船から竿を出し釣り糸を垂らしながら潮に任せて流れている。
ほとんど凪といっていいほどの絶好の天気だ。
だが海も気まぐれだ。
大人しいときもあれば、いきなり怒りだすこともある。
今日の予報は終日快晴だったが、水平線の向こうに黒っぽい雲が現れた。
「あいつ、こっちへ来そうだな」
魚吉の予想通りだった。
見ていると段々と大きくなりながら魚吉のほうへ進んでくる。
「天気予報が外れたか、珍しいな」
とそのときだ、竿がガクンと動いた。
当りがきたのか、竿がグングン引っ張られている。
「ここできたか、こりゃ大きそうだ。逃がしてなるもんか、オレの針にかかったが運の尽き、もう逃がさねえぞ」
竿が三日月のように丸くなってぐいぐい引っ張られている。
シャーとリールから出ていく糸を加減しながら引き寄せていく。
相手がでかいことは経験でわかる。
「こりゃ大きい・・並みじゃねえわ、何だろな、マグロのようでもあるが、それにしてもでかそうだ」
身体が海に引き込まれていくように強く引いてくる。
身体をベルトで固定して引っ張るが、船そのものが相手に引っ張られていく。
朝子のことばかり考えていたが、それどころではなくなった。
「ぐんぐん引かれていく、一体なんだこいつは」
ふと空を見るとあの黒い雲がすぐそこまで近づいている。
雲の下はスコールのようにくすんでぼやけている。
かなりの雨を連れてきているようだ。
そして風とともに海が波立ち始めた。
雲の下でも白波が立っている。
魚吉は自分がいつもとは違う世界にいるような気になった。
「天気もこりゃ普通じゃねえ、おかしいぞ」
天気と竿の先と両方を見なきゃならなくなった。
何者かわからぬ強い魚らしい引きといい、いきなり白波が立ち出した海といい、空を一気におおった黒雲といい、海はいままでとまったく違う顔を見せている。
魚吉はつい声に出した。
「おい、朝子よ、こりやいつもと違う、かかった奴は絶対に逃がさねえ、だけど、どうもどこか違うんだ。何か起きる兆しかもしれん。それが何かおれにはわからん。朝子、おれを守ってくれ」
魚吉は胸に下げている朝子がくれたお守りを握りしめた。
竿は三日月のように曲がったまま、ぐいぐいと引いている。
もう力比べのようになり始めた。
パラパラと顔に水滴が当たり始めた。
とうとう雨が降り出した。
だがカッパを着ている余裕はない。
すぐ下の海にも波が立ち、白波が現われ出した。
船が波の上で踊り始める。
ズズーッと船の舳先が上がったと思うと、今度はズズーッと海の中へ沈んでいく。
沈んでいくときは、まるで海の底へ入っていくようだ。
こんなことは数え切れないほど経験しているが、だが今の海はどこか違う。
魚吉は一瞬不安になった。
「どうしたんだろう、オレらしくもない。ウオキチガンバレ」
自分に言い聞かせている。
助ける者はおらず、自分で切り抜けるしかない。
だが竿にかかった相手はなおも必死で戦ってくる。
相手だって釣られたくはない。
見ると相手に船が流されている。
「なんて野郎だ、船を引っ張ってやがる」
だがそこは魚吉だ。
「少し寄ってきた・・こっちもくたびれるが、向こうも同じだろう。粘ったほうが勝ちだ」
少し戻してはまた引き寄せる。
雨は本降り、魚吉はもうびしゃ濡れだ。
「夏で良かった、冬なら身体がもたん」
相手は何者なのか、さすがに腕も少々へばってきた。
だが相手もそう簡単には釣られない。
荒れる海の中で船を守りながら獲物も釣り上げなきゃならない。
竿を持ちながら舵を取り波をしのいでいく。
腹が減っているがそれどころではない。
するとまた相手が大きく動き始めた。
「この野郎、これが最後の抵抗かもな、ここで負けては魚吉の名が泣くってもんだ。さあこい、逃げれるもんなら逃げてみやがれ」
暗い空、大粒の雨、波がくだける海、獲物に本弄される小船。
遊びで立てているキャビンの上の小さな旭日旗が風にバタバタと翻っている。
魚吉はその旭日旗を力いっぱい握りしめた。
海軍の水兵のような気分で、どこか高揚している。
すると相手の変化を感じた。
「うん? この野郎、ちょっと弱ったかな・・」
必死でリールを巻いては少し緩め、また巻いては少し緩めていく。
時々グイッと引くが明らかに弱くなっている。
また朝子のお守りを握りしめた。
波が少し収まり始めた。
空を見上げると黒雲の向こうが明るくなっている。
「スコールだったか、雨も風もやみそうだ」
状況は魚吉に味方している。
グイッグイッとリールを巻いていく。
船が少し安定し始めた。
「こうなりゃ、もうこっちのもんだ。オイッおまえ、もうあきらめろ」
もう相手は遠くない。
そのときだ、目の先10メートルくらいのところでバサーッと黒い巨体が波の上にはねた。
「マグロ・・やはりマグロだ、で、でかいぞこりゃ、漁師になって初めて見るでかさだ」
魚吉が一瞬ひるんだほどでかい。
大マグロの身体が少し見えてきた。
魚吉はいつもの魚吉に戻った。
「朝子、待ってろ、港でいままで一番でかいマグロだ。車代が一発で出るぞ、釣って帰るぞォー」
海の上に魚吉の声が響いた。
なぜか木霊が帰ってきたように魚吉には思えた。
グリッグリッとリールを巻いていく。
寄ってくれば寄ってくるほどでかい。
「恐ろしくなるほどでかいな」
さすがに向こうもくたびれたか、ぐりぐりと動いてはいるが、もう魚吉を引きずり込むほどの力はない。
すぐそこまで引き寄せた。
魚吉は呆然とした。
「でかい、デカすぎるで、おい」
魚吉一人じゃとても船に上げられそうにはない。
船の舷側に縛ってもバランス一つで船ごとひっくり返りそうだ。
大マグロは船のそばでゆっくりと動きながら水の中から魚吉を見ている。
「そんな目で見んなよ」
観念したようにも思えるが、逃げるチャンスを狙っているようにも見える。
魚にも生き物なりの知恵がある。
魚吉はモリを出してきた。
「おい、もうあきらめろ」
と言うやモリで相手の脳髄あたりを一気に突き刺した。
動脈もと思ったがやめた。
普通のマグロならまだやり方もあるが、こいつはそうはいかない。
「動けなきゃええ、このまま舷側に縛って港に戻ろう。朝子もみなもおどろくだろうな」
エラにロープを通して船の?に縛りつけ、尻尾にもロープを回した。
船が傾(かし)いでいるが仕方ない。
魚吉は朝の夫婦喧嘩はもう忘れている。
見ると空も海も元の姿に戻っている。
魚吉の服も乾き始めた。
船は港に向かってまっすぐに走っている。
GPSを確認すると港はまだ遠い。
「こんな遠くまで来てたのか。こりゃ港に帰るのは夕方か夜になりそうだな」
漁協に連絡を入れた。
「こちら魚吉です・・そうです・・はい、了解しました。獲物ですか、ええマグロを一本いや一台かな」
「一台て・・」
「うん、でかい、とてつもなくでかい。一人じゃ上がらないので舷側に縛っている」
漁協は半信半疑のようだ。
魚吉は朝子にも連絡を入れたが返事がない。
買い物か、漁協の加工場にでもいるんだろうか。
魚吉は朝のケンカはもう思い出しもしない。
なにせマグロで頭はいっぱいだ。
日が傾いてきた。
船はでかいマグロを抱いているのでスピードが出せない。
あっという間に日が暮れた。
夜空は満点の星だ。
見慣れた夜空だが、今晩は違う。
星が月が魚吉を称えているように見える。
「みんなおどろくぞ、こりゃ、ネットでも投稿してみるかな」
船は自働操船にしている。
港に近づくまでは寝られる。
空腹もそばのマグロを見るとあまり気にもならない。
航行灯をつけた魚吉の船が一隻だけ、星空の下の黒い海をゆっくりと走っている。
「ちょっとスピードを上げようか、朝子が気になる」
するとマグロをつないでいる舷側でガツンという大きな音がした。
「なんだ何かに当たったか」
すぐに行って見ると大きな黒い影がマグロに取りついてはねている。
大きなしぶきが魚吉を襲った。
マグロにライトを当てた。
マグロの頭の横にもう一つ頭があった。
「サメ・・・」
サメだ。
こいつもでかい。
あの映画のジョーズのようにでかい。
さすがの魚吉も後ろに下がった。
大マグロを食う大サメのせいで船がひっくり返りそうだ。
マグロを食いちぎっている。
猛烈な食い方だ。
マグロが大きいだけに食いがいがあるのだろう。
船が左右に大きく揺れる。
「このままじゃ船が危ない」
魚吉はモリを出してサメを手当たり次第に突いた。
だがサメの急所に中々当たらない。
「コンチクショー、このヤロー」
星空の下は修羅場になった。
すると見当で突いたのが良かったのか、サメの目にモリが刺さった。
今度はそのモリが抜けない。
あまり持っていては魚吉まで引っ張り込まれる。
魚吉はモリから手を離した。
サメは暴れまくっていたがじきに消えた。
目に刺さったのが効いたのだろう。
改めてマグロを見た。
ライトを当てて見るとマグロが小さくなっている。
「なんだ、どうなった」
じっと見るとマグロの下半分が・・・無い。
「なんてこった。半分食われてやがら」
マグロの下半分はわずかに骨だけを残して無くなっていた。
魚吉はへたりこんだ。
一気に疲れが出てきた。
「朝子ォ~ マグロが半分になっちまったよォ~」
元気なのは船と夜光虫だけだ。
船は順調に港に向かっている。
「でもまあ水に入っているときにサメに襲われなくて良かった。これも朝子のお守りのおかげかな」とまたお守りを握りしめた。
へたれた魚吉を乗せて船は港に近づいていく。
港の入り口を示す灯台が見えてきた。
魚市場はすでに暗いが漁協の事務所には明かりがついて多くの人影が見える。
魚吉を案じてみんなが集まってきていたのだ。
魚吉はへたれながら舵を取り、桟橋についた。
すると漁師仲間やその家族たちから拍手が起きた。
「おう無事やったか、えかったえかった」
みなが喜んでくれる。
漁業組合の理事が「無事で良かった、あれか」と尋ねた。
「ええ、そこ」
「おお、頭のデカいこと、こりゃスゴ・・・・」
と言ったまま理事は黙った。
みなも寄ってきて半身になったマグロを見た。
この場合おどろいていいのか、笑っていいのかわからない。
しかしその頭でマグロの大きさはわかる。
「すげえの釣ったな・・・サメか」
「うん、半身食われた」
みなが浮き桟橋に入ってきて収拾がつかなくなった。
「おい、危ないから寄るな寄るな」
それを聞きながら魚吉は朝子の姿を探した。
どこにもいない。
ここにいるはずだが、電話したときも出なかった。
魚吉はさすがに心配になった。
すると隣の女房が言った。
「朝子さん夕方に荷物持って車で出かけよったで」
魚吉はそこで朝のケンカを思い出した。
魚吉はみなの前で恥も外聞もなく叫びながら家に向かった。
「アサコ~!」
みなも事情は知っているし、二人の性格も知っている。
「騒がんでも朝子さん明後日には帰ってくるって」
「それにしてもでかいマグロやの」
「うん、こんなのは初めて見た」
「よう釣ったもんやの、まるでクジラやないか」
「まあ売りには出せんが、半分残っておるで食うほどあるで、これは」
「上げてみようぜ」
みんなで半身のマグロを上げ始めた。
魚吉と朝子のことは初めてでもなく、誰も心配してない。
だが魚吉本人には大問題だ。
家に帰った。
魚吉は台所で座りこんでしまった。
「おらん、おらんがな、朝子がおらん。たたいてしもうた、ゆるしてな、ゆる・・」
ふと見るとテーブルの上に皿を重しにして紙が置いてある。
何か書いてある。
朝子の字だ。
手に取って読んだ。
「実家へしばらく帰ります。夕食と明日の朝はつくってあります。町の女より 魚吉様」
港の岸壁は大マグロの頭で大騒ぎになっていた。