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定年後フリーランス☆シンポジウム等への登壇

 サラリーマンとの二足の草鞋(昨今の巷で言われるところのパラレルワーク)を履いていた時期、とりわけ三十代・四十代の血の気が多く元気な頃は、パネルディスカッション登壇の依頼がちょくちょく入ってきた。若い頃は評論もどきの、いたずらに好戦的な理屈っぽい文章を各所に書き散らしていたから、こいつを入れたらおもしろくなりそう、と考えた奇特なひともいたようだ。

いちばん最初のパネルディスカッションは、1990年(平成2年)の現代俳句協会青年部シンポジウム(第2回)。大阪で。テーマは「俳句によって何を表現し何を学ぶか」。パネラーは6人。ずいぶん真面目なテーマだが、そのとき自分が何を話し、他のパネラーが具体的に何を喋ったかは覚えていない。現代俳句協会は俳人の交流団体で会員は約4500人(現時点)。パネルディスカッション開催当時の33年前はもっと多かったように思う。数百人は聴きに来ていたかと。パネルディスカッション後、ちょっとした歓談のひとときがあった。因みに私は俳人の業界団体に所属したことがなく、よってこの現代俳句協会の会員でもなかったのだが、ご縁があって喋ることとなった。

研究者と実作者が共同で開催したものもあった。2012年(平成24年)、第5回愛媛大学写生文研究会主催のシンポジウム。京都私学会館にて。テーマは「俳句にとって「写生」とは」。私自身にとっても自分自身のテーマに深く関わるものだったので、気を入れた。パネラー5人のうち研究者はひとり。かなり実作に即した、私にとっては内容の濃いものとなった。最初にパネラーの一人である俳人が、「写生の「中味」」と題する基調講演を1時間ほどしてから、研究者の司会のもとに俳人4人によるディスカッションが2時間ばかりあった。

最近では、第176回現代俳句協会青年部勉強会が、オンライン(ZOOM)で実施されたのに登壇した。年も押し詰まった2022年12月17日(土)の午後5時半から午後9時近くまで。テーマは「宇佐美魚目を知る〜虚実のあわいへの扉」。宇佐美魚目は現代俳句の代表的俳人なのだが、私は若い頃から宇佐美魚目氏の親炙に浴していたゆえ、この勉強会に呼ばれた次第。パネラー3人とディスカッションにも参加する司会1人。まずはじめにそれぞれのパネラーが30分ほど喋ってから討議へ。ZOOMの参加者は25人ほど。(後日のアーカイブ視聴が30人ほど)私以外はみんな20代、30代の息子、娘ほどの若いひと。もちろん宇佐美魚目氏と直接会ったことのないひとばかり。宇佐美氏とのエピソードを交えながらたのしい話ができた。

俳句結社(俳句を趣味とする人達のコミュニティを俳句の世界ではこう呼ぶ)の周年記念大会等の催しのひとつとしておこなわれるシンポジウムにも三十代、四十代の頃は度度呼ばれた。記憶に残っているのは、1991年(平成3年)11月、大阪で開催された俳句結社「運河」の茨木和生氏新主宰就任祝賀会においての小さなシンポジウム。たしか俳人の師系について話し合ったかと。来賓を含め多くの人々が集まっていた。新主宰の茨木和生氏との関係で、小説家の中上健次氏が招待されていた。中上氏は二次会で、へべれけの泥酔状態で大好きな都はるみの曲を歌っておられた。目にくっきりと隈をつくって顔色がすこぶる悪かった。この祝賀会の翌年(1992年)の夏、亡くなられたのには驚いた。

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