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「趣味をマネタイズする」という安直さについて

ちょと前に「趣味をマネタイズしようとする際によく勘違いすること」と題する文章を記述していてふと思ったことがあるので記述しておきたい。

今回の文章の表題〈「趣味をマネタイズする」という安直さについて〉を見て「そういうおまえも趣味をマネタイズしているではないか」と突っ込みを入れる向きもあるだろう。たしかにかなりはやいうち(二〇歳)に、当時はまだ純粋に趣味として楽しんでいた俳句で図らずもお金が入ってきた。ただそれはたまたま結果として銭金になったにすぎない。銭金になったとき予想していた以上の金額であったから驚き、ラッキーとは思ったが、「これ(俳句)でもって幾ばくかの銭金を稼ごう」という思いは起きなかったし、そこからかなり長いあいだ、趣味(途中から道楽)と銭金(実入り)の因果について意識することはなかった。

他人の思惑を気にせずに趣味は趣味として純粋に楽しむのがまっとうかと考える。ただ趣味は死ぬまでずっと罪のない趣味で終わる場合と、それではすまなくなる場合とがある。趣味は度を超えると道楽になる。私のやっている俳句について道楽を考えてみる。道楽を『広辞苑』(岩波書店・第六版)で引くと、第一番目に〈本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。〉、第二番目に〈ものずき。好事(こうず)。〉、第三番目に〈酒色・博打(ばくち)などの遊興にふけること。放蕩。遊蕩。また、その人。〉と記述されている。第一番目は私的には違うと思う。〈ふける〉(耽る)はその通りだが、〈趣味などに〉の〈趣味〉が違う。そもそも趣味と道楽とは違う。第二番目はそうだろう。マニアックであるということ。第三番目は違うだろう。酒色、博打とは毛色が違う。放蕩、遊蕩も酒色に絡むからちょっと違うのだが、江戸時代、俳諧にうつつを抜かしたバ◯息子が親から勘当された話を仄聞するから、放蕩のイメージはなきにしもあらずだ。趣味は楽しく心豊かになり明るくポジティブだが、道楽はときにひとさまに迷惑をかけたりもして暗くネガティブだ。趣味はどこまでも軽やかに主体的である。道楽は〈耽る〉すなわち、対象に心を奪われ自制心を失い溺れる。でも運のよい例外を除いては、道楽までゆきつかないと銭金にはならない。かえりみるに私において俳句で或る程度(といったところで高が知れているのだが)の銭金が継続して入る状態になったときにはすでに立派な道楽者になりさがっていた。敢えて振り返ってみるならば健全な趣味人から道楽者になりさがるのに六、七年、道楽者として金を突っ込んだのが二十五、六年。道楽者時代だけで俳句で千数百万単位の金が溶けて(結果として先行投資)いる。サラリーマン稼業の稼ぎが無かったら完全に破綻していた。

巷で、マネタイズ対象として意識されていなかった趣味(道楽)がつよく意識されるようになった大きな要因は社会状況の悪い方への変化だと思う。信頼していたあらゆる前提が揺らぎ崩れ、経済的に余裕がなくなり、金銭(実入り)に換算できるかどうかをよくよく考えるようになったから。私が道楽(趣味)と実入り(銭金)の因果についてかなり真剣に考えるようになったのも、社会状況を反映しつつも、おのれに関わる経済状況の先細り現象を契機とする。サラリーマン稼業から退きフリーランスに転向、しばらく内部留保金を食い潰しながらどうにか年金生活に逃げ込んだものの、予想を大きく上回る医療費の増大に音をあげた。気を入れての戦略的なマネタイズ(ランニングコストの最少化と実入りの最大化)を考え始めたのは比較的最近になってからだ。

それで、ここまで記述してきたもろもろの事をかんがみるに「趣味をマネタイズする」という物言いはじつに安直、呑気にきこえる。私の認識しているところの趣味のレベルを踏まえると、趣味ぐらいでは或る程度の固まったお金を、それなりの頻度で継続して得ることはできないだろうと思う。いまだと副業について語られるときに出てくるのか、よく「趣味がお金になる」「趣味をお金にしよう」というフレーズを見たり聞いたりするが、「どうかなあ」と首をかしげる。



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