【短編】世界でいちばん可愛い女の子
霧の朝は遅い。朝だとして動き始める時間は既に昼近くである。昨日、目玉に直撃したレーザーライトが、まだ瞼の裏で悪さしている。朝陽が若干濁っている。何度も言うように、今は昼で、これは西日。だから厳密に言えば、昼すら過ぎているのだ。スマホが震えた。枕に微弱な揺れがつたわる。見なくても分かる。こんな時間だから、既に十数件は緑色の受話器ボタンが待機画面に縦列駐車、駐車?画面を見てまた自分を嫌いになる。アフターを掴めないで酒だけ飲んでゲロ吐いて、その後も無理して踊りまくった夜を明かした後だからスマホも掴めないし、誰の手も掴めず、ディスコライトに照らされて宙に放り出された私の手。しばらくスマホは掴めそうにない。社会の空白地帯に彷徨う私の手。
夜間託児所「ナイト・ベアー」の笹村園長は恰幅のよい体を揺らしながら、響の頭を撫でた。ほんとママ大好きなんだから、ねぇ、キリちゃん。朝は起きないと、子供に心配かけてどうすんのよぉ。すみません。ほんっと朝ダメで、また嘘をつく。朝をダメにしているのは私の夜の過ごし方。見下ろすと、何の表情も浮かべずに黒くて丸い目をじっとこちらに向けてくる。私はここに来て、こうやって響と見つめ合う度に、自分の母としての力量を見定められているような気分になる。私が手を差し伸べたら素直に握り、帰りのファミレスではメニューに全く迷わず、私が眠い目をこすってLINEをチェックしていたら水を持ってきてくれる。ごめん、と愛想なく言ってしまい、その瞬間すぐ後悔。私は娘に感謝する余裕すら持てない。自分が子供の頃に憧れたよその家の母親に、私は一歩も近付けなかった。でも響はこくんと無表情で頷いて、「ナイト・ベアー」から借りて来たエルマーを読む。託児所には絵本ばかり置いてあるのに、響はエルマーばかり読んでいた。面白い?と聞く勇気がない。面白いんじゃなくて、物語に逃げているの、なんて絶対返ってこないはずの答えが返ってきたら、カトラリーのステーキナイフで首を貫くかもしれない。かもしれない、だけ、私はそんなんできず、実家からLINEが来ていて、見たくないのにそちらに逃げる。エルマーは半分読了されている。実家の母より我が子を怖がる私。母、お米送るから。ジャーが壊れているのを思い出し、まじ鬱になる。
「美味しいね」
私はせめて響と、表面上だけでもいいから仲の良い親子でいたいと思った。だから響の頼んだハンバーグセットにあわせて、自分もハンバーグステーキを頼む。本当ならニンジンのサラダだけで済ませてたい。茶色い塊を口に押し込んで、よく焼けているはずのあいびき肉の隙間から微妙なナマっぽさを感じ取って、それが吐き気を誘発させる。押し込めて「美味しいね」と笑顔で言ってみる。それが母としての戦いのような気がしてくる。社会との戦いのような気がしてくる。響はこくりと頷いて、黙々と食べ進めた。自分がこの世界の最底辺。響が私を惨めにしている、と数日前思って、昨日食べたペーパーにより歪んだ視界の中で七色を額縁とした暗闇を見たら、その中に最底辺ブスの私がいた。私がクズ過ぎて、響はそんな私を憐れんでいる。そう考えた瞬間泣きたくなって、クラブ「Je Parfait」から飛び出してうわーんと子供みたいにわざとらしく駆け出した。後ろから何人か追いかけてきた。同じようにうわーんと言っていた。泣いているのは私だけ、後ろには笑いながらうわーんと叫ぶ男女が数名、こうやって駆けに駆けて、それでも猶、追いつけない位置に響が静かに立って背中を向けている。
いやなの、いやなの、ママね、本当に響のこと大好きなんだよ。ごめんね、ごめんね、こんなでごめんね。響と寝る時、腕を右肩に添えて、左肩に額を当てて泣くのだ。辛いことがあった時、彼氏の肩にもたれかかって泣いたテニ部合宿最後の夜。響はこの時も無表情で、だけど静かに私の頭で頬を擦った。大丈夫だよって言われた気がした。響は全然喋らない。学校は行かせたはずなのに、発達障害じゃないかって発作みたいにネットで調べ漁って、チェックマークを何個も付けたり、福祉事業所の無料メルマガにいくつも登録したりした。小学校の保護者面談で聞いたら「響ちゃんは優秀ですよ。授業中静かだし、成績もいいです。優しいですし、物静かな子に意見を聞いたり、理科係をやっていて手伝うことがないか積極的に聞いてくれます」と返ってきて、お前はこの子の何を見てるんだ、プチっ、脳の横、頭蓋骨の内側で音がした。なんでキレてるんだ。帰り道で私は響を見た。静かに無表情で前を見ていた。立ち止まった私を振り返り、くいっと手を引いた。行くよ、と言われた気がする。すごく低い声で。
ねぇ響。くいっと顔が上がる。あのね、ちょっとお願いがあるの。こくりと頷く響。うん、あのね。しゃくりあげ。情けない。くいっ。今度は手をひかれる。違うの、あのね。暗い中に白く、白いけど暗い、私の頭の中には墓場が広がっていた。埋葬なんてされっこないから、頭の中に墓標が。あのね。まま。あのね。まま。まま。うん?おふろ。へぁ。情けない。これは客観的に見て、私の顔が情けなかったであろうという意味で、銭湯だった。
「おふろ」
私より圧倒的に服を脱ぐのが早い響。私は屈んでロッカーに下着を入れ、すたすた歩いていく響を追いかける。重そうな引き戸を開けて、椅子と桶の前で立ち止まり、私の方を見た。ひとつずつ取ると、今度は仕切られた洗い場に歩いていき、また振り返る。立場が逆だ、本来なら。
わしゃわしゃと響の頭を泡立てる。髪は細く、本気を出して引っ張ったら千切れて尼さんヘッドになりそう。弱く、か細い毛髪でもシャンプーは異様なほど泡立った。少し指を立てて、おそるおそる若干の力をこめる。少し、身じろぎ、えっ、パッ、ぶつけた。
いった、仕切りに手をぶつけた。パッと離した結果、ぶつけて、さすりながら、痛かった?痛かった?どうしよう、もうやだ、でしゃばるな。我が子に対してすら、でも私なんか我が子に対してすら、でしゃばるなんて、ひび、き?きょとん、きょとんとした顔で振り返り、目が黒い丸い可愛いかわいすぎる、もっと、とろんと目尻が垂れた響かわいい。え、うん?痛かった?ううん、大丈夫まま、
きもちぃ、もっと。
もくりと私たち2人を覆う湯気の白さに包まれ、私は響を後ろから抱きしめた。泡だらけの体同士はぬるんと滑りつつ重なり合って、それでも私は響を逃がすまいと強く抱きしめた。つるんと抜け落ちてしまいそうな響の体を、欠食によって病的に細くなった両腕で抱き留めた。響は動かない。どうしてこう育ってしまったんだろう。どうしてこんなに良い子になってしまったんだろう。私にとって都合のいい子供になったのではなく、私に都合がよいように黙って待ってくれるこの子は、どうしてこんなにかわいいのだろう。白い湯気があたたかく周りからの視線を遮ってくれている気がする。銭湯で泣くのは子供だろう。親が泣き、響はそれを黙って受け入れた。こんな恥ずかしい親はいない。こんな恥晒し、でも晒した恥を掻き分けた奥に、こんなに素敵ないのちがある。今夜こそ、行かないね。私どこにも、エルマー読もうね、おしいれのぼうけん、また読もうね、一緒にピーターパンの最初のところ何度も何度も見るね、見ようね、私、メンキャバにもクラブにもマッスルバーにも行かない、行かない、と誓うが、30%くらいの確率で行っちゃう、もう風呂場ゆえの水滴か涙かわからない。でも誓う。この子を胸に誓いまくる。誓うという言葉の神聖さを軽んじる、数十回死刑にされても足りない売女はここにいる。そして、この子はそんな売女の情けなさと我儘と卑劣さが生み出した、世界でいちばん可愛い女の子だ。