【掌編】ロケーション・ノーティフィケ―ション
「iPhoneを探す」と検索して出てきたiCloudのログイン画面に何度も何度もメールアドレスとパスワードを打ち込んだ。この画面はずっと点けっぱなしにできず、定期的な再ログインを求められる。画面上の地図で私のiPhoneはタクシー会社の営業所の位置から変わらず、30分間静止しているようだ。それでも私は「本当にこの位置情報は正しいのか」「タクシーの中に放置されていて、忘れ物として認識されていないんじゃないか」「また遠くにiPhoneが運ばれていくんじゃないか」と気が気じゃなかった。
暗い部屋でパソコンを食い入るように見つめる私に、達也が後ろから抱き着いてくる。
「見つかった?」
「うん、ここから動いてない」
私が画面を指さすと達也が目を細めて顔を前に出す。達也の白い首と何も纏っていない肩のあたりが私の視界に入った。
「お、ここタクシーの営業所って書いてあるじゃん。多分預かってもらってるってことだね」
「うん、今から向かいますって書いた」
「書いたって何?」
聞きながら達也は私の肩に頭をのせ、ゆっくりと首元へ唇を這わせてくる。
「これ、iPhoneの画面にメッセージを残せるの。電話番号のせたりとか、どこどこに持ってってくださいとか表示させて」
ついでに遠隔でiPhoneから音も鳴らすことができる。
「へぇ、しっかりしてんね。この機能使ったことないかも」
うなじに吸い付く達也の声がくぐもっている。そのまま首と同化して動かなくなるんじゃないかと想像する。声も発さなくなり、ただただ私の後ろにくっつく人型の何か。
私たちは3回ほどの逢瀬を重ね、浮気にしては不器用で、純愛にしては無責任な歪んだ関係を作り出した。それを表現するため、奇怪なオブジェになる。その方が、月曜日から出勤する自分より、これからiPhoneを取りに行く自分より、インポの彼氏を優しく励まそうとする自分より、望ましい姿なんじゃないかと思った。
カーテンの隙間から陽の光が入ってくる。時刻は午前7時。椅子にべたりと張り付いた私の太腿は、湧いたうえで流れもしない汗にまみれており、その汗の感触から、達也を触り、嗅ぎ、味わい続けた数時間を思い出す。肌色という視覚情報が聴覚や味覚、嗅覚に伝わるよう変換されたら、あんな感じなんだろうと思う。
都営新宿線で新宿まで行き、埼京線に乗って板橋まで向かう。板橋にあるタクシー営業所には2つのタクシー会社が同じビルに入っており、1つ目の営業所窓口に行ったらiPhoneは届いていないと返答され、フリーズして頭が真っ白になる私に「もうひとつ営業所がこのビルにありまして、そちらかもしれませんね。基本タクシー内の忘れ物は確認するようにしているので、営業所で預かることはできていると思うので」と笑顔で言ってくれたのは太った男性社員の人で、それに対して「分かりました。あそこのエレベーターから上がればいいですか」と返したのは私ではなく達也だった。
「あ、いや外階段がありまして、そちらから上がっていただく形になりますね。すみません、ご不便をおかけしますが」
「分かりました、ありがとうございます。キョウカ、ほら大丈夫、いくよ」
達也は笑顔になった瞬間、目も口も想像を絶するほど細くなり、相手をハラハラさせるような危険な表情を作り出す。私は一瞬のうちに、太った男性社員と達也の笑顔を見比べていた。iPhoneをこの手に取って安心したはずなのに、私がその時求めたのは安心感のある笑顔ではなく、達也の危険な笑顔だった。iPhoneなんてどうでもいいから、駅前に戻って漫喫に行ってカップルシートのフリータイムで永遠にまさぐり合いたい。だけど達也はシラフ状態で外にいる時、スマートでクレバーで、衝動に任せて目的を放棄するようなことは絶対にしない。私の手をひきつつ、決して引っ張らず、まっすぐ出口の自動ドアへ進んでいく達也が、私には機械のように見えて、その機械が放つ冷たい空気が夏に火照る私の肌には心地よい。
外に出て日差しが私たちを刺す。達也が私の手を離し、あっちだねと指さした方に狭い階段があり、その上にはタクシー会社の看板と共に、透明の小さな引き戸がある。達也は私を見て、動かずに待っている。私はその場から動かずにいる。私が動き出さない限り、達也は動き出さないらしかった。手を引いて頼もしい強引さを発揮したかと思えば、あくまで現状のイニシアチブは私にあると態度で主張して妙に受動的なこともあり、その軸のない柔軟さが私にとって1度も不快さを与えなかったことが、今になって妙に不気味だった。肌色の柔肌から汗を垂らす達也も、冷静に私を導く達也も、私にとって決して不快だったことはない。
これは達也の魔性っぷりが原因なのだろうか。私はそうに決まっていると思いながら、体に吸い込み続けたアルコールによって、何かに対する感度が摩耗しているからじゃないかと考えつつ、達也を見つめ続けて、いつまでも2人でいる時間を引き延ばそうとする。
iPhoneが見つかって、カメラで達也の後姿を撮った。写真の中におさまる達也は、先ほど私の手を引いた時よりもずっと子供っぽい。無表情ではなく、寧ろ笑っているのだが写真を撮られる事自体は好きじゃなさそうでそっぽを向いたりして、からかうような話題を振ると口角だけ上げて黙ってしまう。アルコールによって1日1日をなんとなくいい日にしようと頑張っている大人と違って、この子は人生を何かに使おうという、時間を未来の為に使おうというキラキラしたエネルギー源みたいなものがある。それを人に侵害されてしまうんじゃないかって、照れという感情を捨てきれずにいる。達也は私の8個下だった。彼が8個下なんだぁ、でも確かに8個下だよなぁという意味のない疑問と納得の繰り返しが私の中で巻き起こっていた。でもこの子、すごくドライだったり、すごく甘々だったりするじゃん。先ほど私の手を引いた営業所での時間と、その時私が考えたこと。照れる彼の姿も、彼の一側面でしかない。そう思うと、他者は宇宙、と表現した元彼の大学院生が思い出された。
達也に手を振って、電車に乗って帰った。部屋に残る空気の中に達也の香りを探すが、全部の匂いが「どことなく達也っぽい」という感じもして、なんなら部屋にあげてしまった時点で、その男は薄まった形でその部屋に住み着き続けるとも言えるかもしれないな。達也の煙草を包んでいた薄いフィルムがベッドに落ちていた。それを尻で潰すようにして座る。
iPhoneにたまった通知を改めて見直していたら、彼氏からLINEが入っていることに気付いた。その上には達也からの「もうなくさないでね」というメッセージ。おそらくiPhoneのことだ。私は彼氏のLINEの方を開き、適当に返事をして、達也からの連絡は返さずに放置した。
連絡を見て返すという行動が当たり前に日常へ沁みついている中、私は達也と抱き合っていた数時間、その日常の外にいた。私は全国民がスマートデバイスを常備しているのではないかと思われる中、その世界から取り残されそうになって必死に達也へ縋りついていたのかもしれない。
達也のことが好きだ。
3回くらいしか一緒にお酒を飲んでいなくて、出会いだって偶々知り合いの知り合いとしてテーブルの正面に座ってきただけ。その日から、今日に至るまで、達也は1日たりとも同じ顔をせず、共通項を見出せない行動をひたすら連続して取り続けてきた。
私は達也の目まぐるしい変化が妙に落ち着き、iPhoneを紛失した事を忘れていた。
だから何なんだ、と言われたら何も返せないような2日間が終わった。
まだ達也が好きだ。