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田邉俊三郎先生のこと
私がもっとも影響を受けた被爆者・田邉俊三郎先生は2014年に召された。
先生の話はいつも1945年8月6日からはじまった。
学徒動員先で原爆に遭われたことが、先生の人生を大きく変えた。
数学の教師をしながら、事あるごとに自分の体験をたくさんの人に伝えた。
「三度、原水爆の悲劇を繰り返さないため」に文字通り、生涯をかけられた。
調布市に被爆者の会をつくり、苦しんでいる多くの人の相談相手となった。
調布市が非核都市宣言をするまでの運動のうねりをおこし、多くの市民と繋がって進められた。
あの悲惨な体験をもっときちんとリアルに伝えたい。先生は日本画を勉強し、体験を絵にして話された。世界中の人に伝えるために、と72歳でアメリカへ語学留学された。
2005年にはNPT(核不拡散条約)再検討会議に合わせて渡米され、代表団は国連で原爆展を開いた。NTP会議の傍聴、国連からセントラルパークへの4万人大パレード、各国の国連大使への要請、ハイスクールや教会での証言活動など精一杯、訴えられたと聞いている。
主人が結婚前に田邉アパートの店子だったこともあり、私たち夫婦を子どものようにかわいがってくださった。
公に紹介されている被爆体験だけでなく、被爆したゆえに苦しまれてきた話も、ここには書けないがぽつぽつと話して下さった。それはそれは、すさまじいもので、被爆した本人だけではなく、家族や連綿と続く血族にまで影響を与えてしまう放射能の恐ろしさを伝えてくれた。
ここ数年、あまりお会いすることがなかったことを後悔している。3.11以降の日本の姿を先生はどんな思いを抱いて見つめてこられたのだろうか。
いままた、危険な道を後戻りしようとしている世界と日本。
忘れてはいけない。
生涯をかけて核兵器の恐ろしさを伝えようと生きた、多くの「田邉先生」がいたことを。
口絵写真は、マザーテレサと面会し、核兵器の恐ろしさを伝える被爆者のみなさん。田邉先生は前列左から2番目。