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わたしのおいたち

私の家は小さな商店でした。
戦後、樺太から引き揚げた家族を養うために祖母が小さな店を始めたのが最初。
成人した父がバイクの行商からはじめ、あらためて商売を始めました。
小さい頃、夜中に雨が降ると雨漏りがするオンボロ家に住んでいた。母と二人で布団の下を掴んで二つ折りにして雨に濡れないようにして眠ったことを覚えています。
隣に住んでいた幼馴染は、休みにはよくお出かけに連れて行ってもらってたけど、うちは、お出かけどころか外食に行ったこともなかった。

母は13歳から銀行に勤めていた。毎日同じ時間に店の前を通る母に父が惚れたらしい。
いつもスーツで出かけていく姿をほれぼれと、ちょっと寂しく見送っていた。一度保育園に行くのを嫌がった時、一緒に送って来てくれたのが嬉しかったなー。
小学校3年か4年の頃に、銀行を退職して家業を手伝うようになってから、母の手はあかぎれが夏でも治らなかった。
家事をやりながら店番と帳面と資金繰りと、3人分は働いていた。
流産しても休むことなく、疲れて腎盂炎になったことも。活動で忙しく留守にする父と、気の強い祖母の間でいつもじっと耐えていた。私が業者婦人運動にかかわることになったとき、出会うお母さんたちに、いつも母の姿が重なった。
*いまでもそうですが、中小業者の家族の働き分が給与として認められていないことをご存知でしょうか(所得税法第56条)。
*労働の対価(給与)は当然経費ですが、所得税法56条は、個人事業主による配偶者と親族への給与を、税法上、必要経費から排除しています。個人事業主の所得から控除(経費ではない)される働き分は、配偶者が年間86万円、家族が同50万円のみ。交通事故に遭った際の保険保障は専業主婦より低い、所得証明がとれず銀行口座が開けないなど、人権侵害が多々あります。(青色申告の専従者給与は税務署が認めた特例です)

父は、中小業者の営業と権利をまもる運動、文化活動や平和運動に関わり、ひいては市議会議員として政治に関わるようになっていった。その間も兼業で、朝4時に起きて朝市にある店へ出かけて行った。年商(利益ではない)がやっと1000万を超えるくらいの細々とした商いだった。いつも誰かの相談にのっていた。お金のない人、仕事のない人、離婚や交通事故の後始末。

中学校の頃、原水爆禁止の署名の全戸訪問に連れて行かれた。まだアレルギーの強い頃で、どの家でも断られるのに、断られても断られても次の家へ…。「もうやめて帰ろう」と言いたいのに、その真剣さにどうしても言えなかった。
貧乏だったけど、不幸ではなかった子ども時代。
それでも「一生懸命働いて、生きているのに、どうして楽にならないんだろう」ー幼心に感じた疑問が私の原点になった。
そして、私がやりたいように、生きたいようにすることを黙って見守ってくれた。
失敗したときも黙ってそばにいてくれた。
父さん、母さん。
あなたたちの子どもにしてくれた神様に感謝します。

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