「患難期前携挙」しかありえない理由
その1 大艱難時代の本来的意義
『聖書』全体を俯瞰すればわかるように、人類が、イエス・キリストへの「信仰」に至るようにデザインされているのが世界史だと言えます。
そこで、大艱難時代(主の日・怒りの日・裁きの日)の本来的意義としては、「不信者に対する裁き」です。
神様は、イエス様の初臨から、すでに2000年もの時間をかけて、全世界に福音を宣べ伝えられ、インターネットという御業までもあらわされ、「全地球人に福音が届くような環境」をお創りになられました。
したがって、現在においては、「福音を聞いたことがない、聞ける環境ではなかった。」といった状況は、あまり考えられないと思われます。たいていの場合は、「聞くには聞いたけど信じようとしなかった。」といった、「信仰心」によって本人が聞かないことを選択した、ともいえるのではないでしょうか。
ですから、大艱難時代の本来的意義とは、不信者に対する裁きであり、すでにイエス・キリストを信じた者を通らせる理由がないんですね。
例えるならば、「大艱難時代」は「懲罰・刑罰・懲役」といった刑罰で、その以前に全能な弁護人であるイエス・キリストを信じ、イエスがあなたの弁護人となったならば、あなたは「無罪」ですから、「無罪」となった人が懲役に行くのはおかしいです。
ちなみに、この裁判での裁判官・検察官・弁護人は「三位一体」ですべて同一人物だと解釈できます。裁判官・検察官が父なる神で、弁護人がイエス・キリストです。アダムとイブ、人類の原罪により、「最初から結果が決まっている裁判」ですね。だからこそ、事前に「裁判官・検察官と通じ合っている弁護人」をつけて裁判官・検察官と和解し、「無罪」を事前に勝ち取っておかないと、「有罪」が確定し7年の大艱難時代――さらにその後の火の池――を通ることになるわけです。
裁判の話では例えが多くなりましたが、前提としての大艱難時代はなんのためにあるのか?という本来的意義について述べました。
その2 ユダヤ教の7つの祭りと「予表」
ユダヤ教には7つの祭りがあります。
実は、これが神様の人類救済計画・人類史計画の予表となっているのですね。
【春の祭り】
1.過越の祭り
2.種なしパンの祭り
3.初穂の祭り(キリストの復活の予表)
4.7週の祭り
――中間の4か月――(教会時代の予表)
【秋の祭り】
5.ラッパの祭り(携挙の予表)
6.贖罪の日(大艱難時代の予表)
7.仮庵の祭り(千年王国の予表)
ですから、この祭りの順番を見れば、携挙が大艱難時代の前にあることがわかるのです。
その3 『聖書』の字義通りの読解
大前提として、『聖書』はへブル的に字義通りに読むべきです。聖書の中における「"イスラエル"を"教会"に置換」したりする置換神学は、字義通りの解釈ではなく、人間の勝手な解釈です。
その証左として、聖書預言はこれまでもすべて「字義通りに成就」しています。それゆえ、これからも「字義通りに成就」するのです。また、聖書預言は字義通りに成就する、と信じることは、それすなわち「神への信仰」だとも言えます。聖書預言の字義通りの成就を疑うこと、それすなわち「神を疑うこと」になりはしないでしょうか?
一例として、1948年までは、国家としてのイスラエルが存在しませんでしたが、今となっては「ああ、字義通りに国家としてのイスラエルが存在するんだ」とわかりますよね。
聖書箇所における「艱難期前携挙」の根拠につきましては、こちらのサイトが詳しいですので、こちらのサイトに譲らせていただきます。(当記事は、あくまでも総合的に、俯瞰的に艱難期前携挙を証明する意図でありますので、『聖書』箇所の細部検証は、詳しい記事に譲ります)
その4 第二テサロニケ2章3節における誤訳("背教"と"出発")
上記は新改訳聖書2017の訳ですが、
実は「背教」が誤訳なのです。
原語は「へ・アポスタシア」で、これには「背教」と「出発」の二つの意味があります。
不法の者・滅びの子は大艱難時代の悪の主役となる「反キリスト」で、主の日は7年間の大艱難時代です。
背教が起こってから反キリストがあらわれて、大艱難時代が始まりますよ、というのと、
出発=携挙が起こってから反キリストがあらわれて、大艱難時代が始まりますよ、
というのと、どちらが『聖書』的ですか?ここでいう聖書的とは、聖書全体の構成から俯瞰し、どちらのほうが神の計画に近いか?ということです。
「背教」は、教会時代の2000年間常に起こり続けているといってもいいでしょう。皆さんご存じのように、「キリスト教」を名乗ったり『聖書』を使ってはいるけれど、まったく神の御心にそっていない団体はいくらでもありますよね。
しかし、「出発=携挙」はまだ一度も起こったことがありません。
したがって、「まず出発=携挙が起こり、反キリストがあらわれて、大艱難時代に突入する」という解釈こそが、もっともへブル的・聖書的なのですね。メシアニックジュー神学者のフルクテンバウム博士も、ここの「へ・アポスタシア」を「携挙」と解釈されています。
その5 大艱難時代におけるメシアニックジュー伝道者14万4千人による世界伝道の必要性
大艱難時代においては、14万4千人のユダヤ人伝道者が世界伝道をします。(黙示録7章1節~8節)
ここで問題となるのは、艱難期中携挙・艱難期後携挙ならば、わざわざユダヤ人を世界伝道のために動員する必要があるのでしょうか?
艱難期中携挙・艱難期後携挙ならば、「教会員」は地上に残っていることになるため、わざわざユダヤ人伝道者を14万4千人が世界に出て行って伝道する必要性がないんです。教会時代の最終盤である現在は、伝道者は14万どころか数えきれないくらい世界にいるのですから。
ということは、わざわざ14万4千人のメシアニックジュー伝道者を世界宣教の任に任命しなければならないということは、「教会がすでに天に挙げられたので、その必要性がある」ということに他ならないんですね。
まとめ
以上のように、『聖書』を俯瞰的に見たときに、明白に「神のご計画」があらわされ、私たちはそれを「へブル的聖書解釈」によって認識することができます。
したがって、艱難期中携挙説・艱難期後携挙説は、その「明白な神のご計画」に対する反逆ともなりうる危険な説ということになります。
また、「携挙はまだまだ先だから、眠っていても大丈夫」といった油断や、
信仰の面で「真にイエス・キリストの空中再臨・地上再臨を待ち望んでいない」といった不信仰からこういった説が出る危険性もあるわけです。第2テモテ4章8節には「8 あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」とあります。
なにより、イエス様は携挙をもって「目を覚ましていなさい」と言われました。 イエス様の再臨を心から慕い求め、携挙をもって目を覚まし、互いに励まし合うことが聖書の教えなのです。
第一テサロニケ4章18節「18 ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」
最後に、こちらの聖句をもって、皆様の目覚ましのお役立ちとなれば幸いです。
マルコ福音書13章31節-35節
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