
ウォッチマン・ニー「携挙と患難」(第一講)日本語要約――"Rapture and Tribulation"(Watchman Nee)――
本記事は名前の通り「ウォッチマン・警戒者」(倪柝声:ゲイ・タクセイ)【柝声:合図または警戒のために打ち鳴らす木の音。】としてその母親の祈りから神に捧げられた者、近現代中国において偉大なリバイバル・勝利者、神学者・殉教者としての、ウォッチマン・ニーのメッセージ集より「携挙と患難」(第一講)を要約しております。
なお、本文中に「全教会」という表現が多く出てきておりますが、これは原語の中国語に忠実に訳した結果であり、ウォッチマンのメッセージそのものを伝えんとするがゆえです。このように原語の表現に忠実にというコンセプトを採用しているため、日本語表現が不自然になっている箇所があります。
【注意事項】
※聖書箇所は直訳すると「原語→中国語→日本語」となり、構造的に誤訳の可能性が出てくるため、口語訳を引用することとします。
※本記事に要約担当者個人の思想・思い込みを加えないようにしており、どのようなメッセージであろうと、原語に忠実に要約することを方針としております。
要約元はこちらの動画です。
・ウォッチマン・ニーが救いを得て1年強のころ、患難前に全教会が携挙されると主張する本を多く読み、その説を信じていたが、人には言わなかった。
・その後第一コリント15章と第一テサロニケ4章を仔細に読んだところ、どうも全教会が患難前に携挙されるのはある部分で筋道が通らないと思うようになった。
・確かに、この二箇所の聖書箇所は、携挙について述べたものである。しかし、これらの聖書箇所はそこで全教会が患難前に携挙されると言っているだろうか?誰が私たちにそう解釈する権力を与えた?
・上記の疑問より、ウォッチマンは検証を始めた。長年の検証によって得たものは、全教会・患難前携挙を主張する人々には二つの大きな間違いがあるということだ。
・一つ目は、彼ら(患難前携挙説)が引用する聖書は、すべての教会が患難前に携挙されることを証明し得ないこと。二つ目は、彼らの憶測が多すぎて、仮定をもって事実としすぎていることだ。
・ウォッチマンはまず彼らが持っている理由がいかに頼りにならないか、そして彼らの憶測がいかに多すぎるかを述べる。患難前に全教会が携挙されるとすることを信じる理由に従えないこと、患難前にすべての教会が携挙されるとする人々が持つ理由は、ウォッチマンが知るところによると、7点の彼らが最も大きく、最も頼りになりうるとする理由がある。ウォッチマンは自身に何かの抜け落ちがないと信じている。仮に抜け落ちがあったとしても、それは最も小さな点に過ぎないとウォッチマンは言う。
・患難前携挙説者が主張する理由は、実に無理をしすぎている。ウォッチマンは逐一彼らの持っている理由がいかに頼りにならないかを見ることができる。
患難前携挙説者が採用する理由1
ローマ5章9節":私たちはすでにキリストの血によって義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。"
第一テサロニケ1章9から10節":わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、 そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。"
彼らは、この二つの聖書箇所が、「イエスの血によって神の怒りを免れる」、「主が将来来たる神の怒りから私たちを離脱させる」と言う。この将来来る怒りとは?大患難を指しているに他ならない。ゆえに、神の怒りから離脱することは、将来の患難から離脱することだ。将来の患難から離脱するためには、携挙される必要がある。携挙されなければ、患難を必ず通過しなければならない。それゆえ、携挙は必ず患難の前に携挙されなければならない。
第一テサロニケ5章9節から11節:
"神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。 だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。"
患難前携挙説者はいう。大患難は神の大いなる刑罰である。神が私たちを受刑させないように預め定められたのだから、私たちは大患難を通過しない。もし大患難を通過するのなら、それは大いなる刑罰を受けることになる。しかし、神は私たちを大いなる刑罰を受けさせないように預め定められたのだから、私たちは必ず患難前に携挙されるだろう。
患難前携挙説者が根拠とする上記二箇所の聖書をもって、結論付けるのに充分だろうか?不充分だろうか?第一テサロニケ一章9節から10節に至っては、なんの根拠があってそれを大患難と指しているのだろうか?この問題をまず解決しなければ、どうしてこの2節をもってすべての教会が患難前に携挙されるとする証拠になるだろうか?一歩譲ってここの「怒り」が大患難を指しているとしても、これを証拠としてすべての教会が患難前に携挙されるとすることはできない。
よろしい、大患難は神の怒りだ。よろしい、大患難は神の刑罰だ。しかしこの二箇所の聖書は、私たちが将来サタンの怒りを受けない、サタンの迫害に遭わないとは書いていない。なぜなら、大患難の時には、サタンからの怒り、サタンからの迫害もあるからだ。神は信じない者を刑罰に遭わせるが、サタンは信じる者を迫害する。
私たちが黙示録を検証すると、キリスト者が受けるのはサタンからの怒り、サタンからの迫害である。大患難の時には、神からの怒りと刑罰の一方面だけでなく、サタン側からの怒りと迫害もある。ゆえに、聖書に照らして見ると、患難前携挙者が引用する二箇所の聖書箇所は、その理由として認められない。
・患難前携挙説者が採用する理由2
エレミヤ書30章6-7節
子を産む男があるか、尋ねてみよ。どうして男がみな子を産む女のように/手を腰におくのをわたしは見るのか。なぜ、どの人の顔色も青く変っているのか。 悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である。しかし彼はそれから救い出される。
ダニエル12章1節
その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。
この二つの聖書から、教会は「ヤコブの家」ではないため、大患難はユダヤ人に臨むのであって、教会に臨むのではない。教会はユダヤ人ではないからだ。と患難前携挙説者は言う。エレミヤとダニエルの箇所だけを見るならば、大患難はユダヤ人限定である。しかし、私たちは主の言葉を忘れてはならない。主はマタイ4章7節でサタンの聖書の引用に対して、「~とまた書いてある」と言われた。一つの節だけを見るのでは不充分で、別の聖書をも見る必要がある。「~とまた書いてある」は最も重要な原則である。
ゆえに、他の聖書を見ると、大患難はユダヤ人のためだけではないことがわかる。
黙示録3章10節
"忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。"
上記の聖書箇所には「全世界に臨もうとしている試練」とあるから、エレミヤ書とダニエル書の聖書箇所は「患難前携挙説」の根拠とはなりえない。
・また黙示録4:1で「ここに上ってきなさい。」という箇所をヨハネが「全教会を代表している」とする人もいる。また24人の長老も「全教会を代表している」とする人もいる。全教会は黙示録4章ですでに天に引き上げられているから、大患難には遭わない、したがって全教会は患難時代の前に携挙されると患難前携挙説者は言う。しかし、「ここに上ってきなさい」はヨハネ個人に言ったことであり、聖書には24という数字が教会を代表するという箇所もない。聖書は長老=教会と表現する箇所もない。ゆえにこの二つの聖書箇所は患難前携挙説の根拠とはなりえない。
・第一テサロニケ4章はただ私たちに携挙があるという事実だけを伝えているのであって、その時期は伝えていない。携挙があるという事実は、私は認めるが、携挙がいつあるかは、私は聖書から探し出すことができない。頭から読んでも、しっぽから読んでも、全教会が患難時代前に携挙されるという証拠を見出すことができない。第一コリント15章の携挙に関する聖書箇所も同様である。
・上記の聖書箇所は私たちに患難前に携挙があると示していないだけでなく、むしろ「患難後携挙」の聖書の証拠がある。
第一コリント15章の「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。」この「終りのラッパ」はどのラッパだろうか? ただ黙示録のみが、「7番目のラッパ」に言及している。7番目とは、終わりのラッパである。第一コリント15章の「終わりのラッパ」と黙示録「7番目のラッパ」はリンクしている。
もし第一コリント15章の「終わりのラッパ」が患難前に吹かれるのならば、黙示録にある患難時代入りしてから再び「7回のラッパが吹かれる」というのは、筋が通るだろうか?
患難時代前に「終りのラッパ」が吹かれるならば、患難時代入りしてからは「ラッパが吹かれる」ということはないはずだ。もし、この「終りのラッパ」が黙示録の「7番目のラッパ」ではないのなら、聞いてみたい。第一コリントの「終りのラッパ」は、何番目の終りのラッパですか?と。
したがって、第一コリントの携挙に関する聖書箇所は、患難前携挙を証明するものではなく、かえって「患難後携挙」を証明するものである。
・ルカの福音書21章36節
"これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。"
この聖書箇所は、全教会が患難前に携挙されることを証明する証拠になるだろうか?この一節は、救いを得たからといって患難を逃れられるとは言っていない。この一節は人々に早く主を信じて、新生して、患難を逃れるようにとは言っていない。
携挙と救いには直接的関係がない。携挙は「目さまし」と「祈り」が関係する。上記の聖書箇所で「逃れる」のは、「条件付き」である。患難時代前に全教会が携挙されるとするならば、「すべてのクリスチャンが目を覚ましていて絶えず祈っている」ということになってしまう。
・黙示録3章10節
"忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。"
この聖書箇所も、やはり「条件付き」であって、「無条件」ではない。
この聖書箇所は「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから」という条件つきである。黙示録1章9節に「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」という話がある。ここから、現在は私たちがキリストと共に忍耐をしている時間であることがわかる。だからこそ私たちが将来キリストと共に権力を掌握するのである。現在はキリストの忍耐の時である。人が彼を罵っても、キリストは彼を殺しはしなかった。人が彼を呪っても、彼は何も聞かなかったようであった。人が彼に反対しても、キリストは彼らを威嚇したりしなかった。人が何をキリストに対して行っても、キリストは一切構わなかった。キリストは人から反対を受け、誹謗された。これが「キリストの忍耐」である。キリストが今日そうであるなら、すべてのキリスト者もそうでなければならない。今日多くの反対と迫害にキリストはすべて忍耐した。私たちもキリストと共に忍耐するべきだ。
もし、すべてのキリスト者が「キリストの忍耐」を守ったなら、すべてのキリスト者は患難を通過しなくてよいだろう。しかし、誰かがそれを守らなかったなら、話は別だ。なぜなら、患難時代から逃れる御言葉は「条件付き」だからだ。条件を守らなければ、条件を守ったことによる益は得られない。
・患難前携挙説者は、"忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから"という聖書箇所を無視している。
いいなと思ったら応援しよう!
