【GODAIグループ90年の歩み】➀グループの礎・自動車事業の誕生
GODAI note編集部です。
GODAIグループの歴史は1932年、神奈川・横須賀の自動車教習所から始まりました。その90年の歩みを、現会長の佐藤武昌が振り返る【GODAIグループ 90年の歩み】をお届けします。
まずは、創業~戦後の歴史からお話しします。今日のGODAIに通じる普遍的なメッセージを、創業者の佐藤忠三とその妻・佐藤マスの物語から感じていただければ幸いです。
(※以降は、佐藤会長の視点で話を進めます)
神奈川県初の自動車教習所を創業
GODAIグループの歴史は、90年前の1932年から始まります。この年、創業者の父・佐藤忠三が神奈川県横須賀市に、同県で最初の「横須賀自動車学院」を開校しました(翌年に「神奈川自動車学院」に改称) 。
忠三は横浜市内の工業高校を卒業後、株式会社芝浦製作所(現・株式会社東芝)で自動車機器の技術者として働いていました。それがある日、「これからは日本にも国民が自動車を運転する時代が来る」と言って突然会社を辞めます。そして都内の自動車教習所での修行を経て、3年後の32年に自動車教習所を立ち上げたのです。
日産自動車のルーツであるダット自動車製造が小型乗用車生産1号車「ダットサン」を開発したのが32年。トヨタ自動車の前身の豊田自動織機製作所が「トヨダAA型乗用車」を発売したのが36年。世界に冠たる日本の自動車産業が産声を上げた時代に、その後のモータリゼーションの進展を見すえて神奈川県初の自動車教習所を創設した忠三。ここに、GODAIが大切にしているチャレンジスピリットの原点があります。
横浜・白楽で自動車教習所を再開
1935年、忠三はより需要が見込める横浜・白楽に神奈川自動車学院を移転します。しかし、その数年後に召集令状が出て、忠三は日中戦争の戦地へ出征することに。志半ばで自動車教習所の仕事から離れることになりました。
44年、戦地の忠三から「戦火が激しくなる。都会の横浜にいるのは危ない」との電報が届き、小学生の私を含む家族5人は荷物をまとめて北海道へと疎開しました。翌年の45年にようやく終戦を迎え、忠三も無事に帰ってきました。疎開先の北海道・豊浦の漁業組合に職を得て経理の仕事をし、家では戦場での過酷な日々を忘れるかのようにゆったりとくつろぐ父の姿を憶えています。
その一方で、母・マスは違うことを考えていたようです。横浜・白楽の教習所校舎や家屋が空襲で焼失しなかったことを確認したマスは、忠三にこう提案します。
「横浜に帰って、もう一度自動車教習所を始めましょう」
忠三もそれを受け入れ、47年、私たち一家は北海道から白楽に戻って自動車教習所を再開します。
当時の教習車はおんぼろの国産車を改造したもので、ドアはなくフレームとエンジンのみ。それでも多くの教習生が自動車免許を求めて通ってくれました。
49年には隣地の畑を買い、教習所の敷地を拡大しました。今の「GODAI白楽」のテニスコートがある場所です。家族総出でドラム缶に水を満タンに入れ、ゴロゴロ転がしながら土地を固める。駅でのチラシ配りに教室の掃除、夜になればみんなで小銭とお札を数える……大変でしたが、不思議と苦労とは思いませんでした。
この、家庭と事業が一体となった「家業」がGODAIの原点です。今では多くの社員が働くグループへと成長しましたが、社員がお互いに支え合い、助け合う「家業」の精神は今も息づいています。
なぜ「財団法人」を設立した?
1946年、神奈川自動車学院は、神奈川県知事の認可を受けて各種学校の「神奈川自動車学校」となりました。ドラム缶を転がしながらつくった教習所が、 だんだん指定自動車教習所としての基盤を整えていきました。
夢中で仕事に打ち込んでいた忠三を、51年、病魔が襲います。胃がんでした。それでも事業意欲に燃える忠三は、川崎市の八丁畷にも新しい自動車教習所を開校する準備 に心血を注いでいました。土木作業員とともに毎日つるはしを持って働き、真っ黒に日焼けして川崎から戻ってくる父の姿が今も目に焼き付いています。
そして52年、GODAIグループの歴史において大きな転機となる出来事がありました。神奈川自動車学校は財団法人の認可を取り、「財団法人神奈川自動車学校」となったのです。54年には「神奈川自動車学校川崎教習所」が開校。それを見届けた翌55年、忠三はこの世を去りました。当時、私は高校2年生でした。
それにしても、父・忠三はなぜ、株式会社でなく「財団法人」を法人形態に選んだのでしょう? 財団法人は非営利法人です。基本的に営利目的の事業を行うことはできず、解散する際に残余財産がある場合、その財産は国庫に帰属します。戦後のモータリゼーションの進展を見すえていた忠三には、株式会社として運営し売上拡大をめざす選択肢も当然あったはず。にもかかわらず、彼は公益性の高い財団法人を設立することを選びました。その理由を、父が生きているうちに聞くことができなかったことを今でも後悔しています。
おそらく父には、自動車産業の発展には自動車を整備できる人財が不可欠と考え、教習所事業とともに自動車整備士の養成に力を入れていきたいとの思いがあったのではないでしょうか。そこで、財団法人とすることで、私利私欲に走らず公益を追求する教習所・自動車整備士学校であるとの意思を示したのだと想像しています。
この忠三が築いた財団法人の基盤が、今日のGODAIへと受け継がれています。グループ理念の中核には「世のため人のため、公益に尽くす」企業哲学があるのです。
グループの礎を築いた忠三とマス
父であり創業者である忠三が遺してくれたものは、財団法人の基盤だけではありません。父が常々私に聞かせてくれた「精励努力」という言葉があります。
「武昌、人間の能力にはそれほど差はない。差を生むのは努力だ。努力を惜しんではいけない!」
その「精励努力」という言葉を額に入れ、白楽の教習所の教室にも飾っていたほどです。その言葉には「挑戦」の意味も込められていたのではないか。私はそう解釈しています。 「これからは自動車の時代だ」と先を予見し、リスクを顧みずに自動車教習所の設立にチャレンジした忠三の姿勢は、今日のGODAIグループの理念である「挑戦(Challenge Spirit)」をまさに体現するものでした。
また、母・佐藤マスのことにも触れておかなければいけません。マスは忠三が亡くなった後、1997年まで財団法人の理事長の職を全うしました。しかしながら本人が表舞台に出ることは決してなく、私たち従業員を陰から見守ってくれました。関東大震災や戦争などさまざまな苦労を乗り越えてきた母からは「慎ましく謙虚でありなさい」「決しておごってはいけないよ」とよく言われました。また、「従業員を大事にしなさい」も母の口癖でした。正月には従業員全員に対して揚げた餅と白菜の漬物をふるまってくれました。従業員も含めて全員が家族である、という信条が母にはあったのです。
父・忠三、母・マスの信条や人生観が、90年の歳月を経て今日のGODAIグループへと受け継がれています。チャレンジを奨励し、従業員を第一に考える企業文化の源流はこの二人にあるのです。
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