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【GODAIグループ90年の歩み】➁窮地の中から生まれたスポーツ事業のルーツ(前編)

GODAI note編集部です。

GODAIグループの90年の歴史を、現会長の佐藤武昌が振り返る【GODAIグループ 90年の歩み】シリーズ。2回目の今回は、1960年代~70年代にさかのぼります。

第1回はこちら↓

日本列島が高度経済成長に沸いた60年代から70年代にかけてはモータリゼーションが進展し、自動車教習所事業は隆盛をきわめます。しかし、62年に新卒入社した佐藤会長に与えられたのは、不採算の事業ばかり。苦労と失敗の連続だったそうですが、その窮地の中から生まれたのが、今日、1万人を超えるお客さまにご利用いただいている「テニススクール事業」でした。

(※以降は、佐藤会長の視点で話を進めます)

神奈川自動車学校に入社

私が学生時代を過ごした1960年前後は「自動車の運転免許は就職へのパスポート」と言われるほど就職に有利とされ、白楽の「神奈川自動車学校」には教習生が殺到。忙しい日々を送っていました。私も夏休みにはアルバイトで指導員の仕事を手伝っていました。

1435 六角橋商店街 19660220
横浜・白楽の六角橋通り商店街(1966年)

拡大する需要に応えるため、60年には横浜・中村町に、白楽、川崎に続く3校目となる「神奈川自動車学校中村町教習所」を開校しました。

神奈川自動車学校 中村町教習所を開校(1960年)

そして私は大学四年になり、就職を考える時期を迎えました。が、父(創業者・佐藤忠三)が他界した直後から「自分が後継ぎとしてこの教習所を支えていくんだ」という使命感を持っていた私には、他の企業に行く選択肢はありません。62年に大学を卒業し、新卒で財団法人神奈川自動車学校に入職します。その当時は父の後を継いだ伯父と義理の兄が教習所を経営していました。

教習所の仕事を任せてもらえず…

当時の神奈川自動車学校には「整備専修科」と「運転科」の2つの科がありました。その頃の国産車といえば、性能も悪く故障するのが当たり前。そこで自動車の「運転」と「整備」はセットだと考えた創業者・佐藤忠三が、1951年に「神奈川自動車学校整備工場」を設立。61年には工場内に、自動車整備士を養成する「神奈川自動車学校整備専修科」を開校しました。

この整備専修科が、現在の「横浜テクノオート専門学校」の前身です。その後、64年に整備専修科は第一種自動車整備士養成施設として陸運局から認定を受けました。

神奈川自動車学校整備専修科(1961年)

62年に入職した私の最初の配属は、その整備専修科の教員。担当教科は英語と体育でした。同時に、併設する整備工場の事務職員も兼任していました。その3年後には、急逝した工場長の後を継いで工場長を務めました。

「いずれは教習所の仕事に就いて父の後を継ぐ。それまでは与えられた仕事を頑張ろう」

しかし、いつになっても教習所の仕事を任せてくれる様子はありません。それでも我慢して働いていた折、伯父と義理の兄から突然声がかかりました。

「武昌君。新しい会社を立ち上げるので、金庫番をやってくれないか? 半年だけでいいから……」

9千万円の赤字会社の社長に?

その新しい会社の名前は「株式会社神奈川園」。現在の反町公園(横浜市神奈川区)にはかつて横浜市役所庁舎があり、1959年に中区に移転しました。その跡地利用策として、伯父たちは「ゴーカートを利用した児童交通教育事業」を市に提案。それが採択され、ゴーカート場が作られました。

公園内には他にも地元商店街が作ったローラースケートリンクとプール、大手鉄道会社が作ったジェットコースターなどがありました。まるで遊園地のような施設が、小さな公園の中に突如現れたのです。後に地元商店街と一緒に施設を運営することとなり、共同で設立した会社が神奈川園です。

横浜・反町公園にできた「神奈川園」(1968年)
神奈川園のゴーカートの様子(1960年代)

そんな神奈川園への、突然の“出向”の打診。入社2年目で右も左もわからない私は、ひとまず首を縦に振りました。しかし、同時にこのプロジェクトには不安を抱いていました。

「こんな狭い公園の中で時速80キロも出るゴーカートを走らせるなんて危険じゃないか。これのどこが交通教育なんだ?」

フタを開けてみると案の定、お客さまは土日にしか来ない。雨が降ってしまったら運営はお休み。おまけに肝心のゴーカートは故障だらけ……こんな状況でまともに売上が上がるはずもなく、開園して1年目で6百万円の大赤字を出してしまいました。現在の価値に換算するとざっと9千万円は下らない大金です。

しかも「半年たてば会社に戻れる」と聞いていたのに1年、2年経っても一向に話がありません。それどころか、伯父と義理の兄から突然こう告げられます。

「武昌君、若い君ならこの会社を立て直せる。どうか頼むよ……」

こうして、25歳 の私は“9千万円”の借金を背負った会社の社長になってしまいました。


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