人間の本質と失われた30年(企業という組織体を通して)
人間とは本来、「偶有性」を求める生き物である。
私の理解する「偶有性」は、新たな未知の状況を求める本能であり、突然出会う物事に対して好奇心をもってわくわくする気持ちのことである。
脳の構造からみても、人間は「偶有性」を求め、そのことが人間を進化させてきたと言っても過言ではない。
しかし、特に現代の日本は「偶有性忌避症候群」にかかっている・・・・
偶有性に対する恐怖心が、日本国の隅々まで浸透しており、すでにマインドセットとして文化のような状態になってしまっているのでは?と思われるくらいになっている。
なぜそのようになってしまったのか?
人間らしさと「安全基地」
偶有性といった、今まで出会ったことのないものを我々が求めていくには、「安全基地(secure base)」が必要である。幼児が周囲の世界に対して好奇心を持って手を伸ばしていけるのは、両親の存在が自分の心の守りとなっているからであり、両親の暖かい目があるからこそ、子供は安心感を持って、未知の世界に対して冒険ができる。
日本人は成長してくると、この「安全基地」を持てなくなるのではないかと考えている。
それは、将来に対して不安を抱いてしまい、心の拠り所がなくなってしまうからであると。
自律して生きていくためには、失敗しても再度立ち直ることが許容されている社会やそれを可能にする労働市場、社会保障システム、そして自分という存在を引き立たせる思考や知識、専門的な知識である。それらが自分に自信を与えるものであり、世の中を行き渡っていくための武器になり、安全基地でもあると言える。
(「偶有性忌避症候群」という言葉は、茂木氏が自身のブログの中で使った造語として引用)
しかし、これまで日本で実践されてきた教育は、それらを培うことやそれらの重要性を説いてこなかった。
多くの公立学校では薄っぺらく、面白みのない教科書が使われており、世の中を生きていくための教養を、十分に身につけることができない。社会人になっても、企業は組織特殊的な人的資産に投資するために、その企業の中でしか通用しない知識や技術が身に付くようになり、いったん勤めていた会社から出ると、今まで会社で培ってきた知識と技術が他社では使い物にならずに自分にとっての安全基地とならないのだ。日本は他の先進国よりも、教育で使用される教科書や会社で培われる知識や技術が、より規格化されてしまっており、標準的な人間を創り上げてしまい、世の中を自律して生きていくための安全基地の構築を後押ししてこなかった。
ソリューションとしての、両利きの経営
これを企業という面からみれば、成功体験のある既存事業を「深化」、いわゆる効率を上げることは得意だが、「探索」、いわゆる新たなことへのチャレンジができないという状態、現代の日本の産業の状態そのものと言っても過言ではないと思う。
これは個人における先述の、「偶有性忌避症候群」が集合体となり、組織においても同様の状態となってことを意味する。
現代はVUCAな時代であり、先行きがわからない時代となっている。企業がこのような時代に対応していくには、既存事業の効率化である「深化」と、新たなことにチャレンジする「探索」とバランスよく行う必要がある。
これを実現するための第一歩として、組織の構成要素である個人へ回帰し、個々人が安心して働ける状態(「安全基地」のある状態)を作り出すことではないだろうか。
そのためにも、企業はより明確な存在意義と目的を掲げ、個人の働く意味を再定義することが求められる。
(以上)