見出し画像

36歳で多発性骨髄腫を発症した僕が考えたこと その1「人生あとどのくらい?治るの?死ぬの?」

はじめまして!あつぎごちゃまぜフェス運営スタッフのこやさんです。36歳で多発性骨髄腫を発症し、腰椎病理骨折→13カ月の入院生活を経て現在は在宅療養中。完全テレワークでサラリーマンをしています。分身ロボットOriHimeのパイロットもやっています。病気になってから吉藤オリィさんやOriHime、それに関わる皆さんと出会い、分身ロボットカフェやSNSを介していろいろな人との繋がりができました。

画像1


自分でもSNSで発信することはあるけれど、病気についてはあまり書いていません。なぜなのか?病気を発症して、同じような血液がんや他の病気の方のブログなどを沢山みました。自分の状況と比べたり参考にさせて頂いたり、とても助かった反面、その方々が心配な気持ちにもなります。自分も病気になり、両親や家族を始め、沢山の方に心配をかけました。今以上に心配をかける人を増やしたくは無かったのかもしれません。


病気により障害者となり、闘病も続いていて、通常の生活をしていた昔に比べれば、不便という意味では、不幸になりました。ただ、昔からの僕をご存知の方は、今の僕に対して「君は不幸になったね」とは欠片も思わないのではないか、と妙な自信があります。その理由はアレとかコレとか色々思うところはありますが、きっと明日にはまた違う理由が思いつく気もします。


そしていま、ごちゃまぜフェスのnoteに記事を書いてみない?と言われたこともあり、せっかくなので自分が病気になって思ったこと、純粋な当初の気持ち、体験したことを書いてみることにしました。自分と同じ病気の方や、周りで支えている方を、微力にでも応援することにつながったらいいなと思います。そして少しでも、読んで頂けた方が前向きになれる、心を温められるきっかけになれたら幸いです。

画像2

▲あつぎごちゃまぜフェス2020オンライン配信にて


=====

血液がんと告知されたときに、大きく2つのことを考えた。

①「何この病気、人生あとどのくらい?」
②「子供の成人には立ち会えないのか?」

今回は、1つ目について書いてみる。

「何この病気、人生あとどのくらい?」

血液がんってなに?治るの?死ぬの?病気のことを知らなすぎて不安。

画像3

病気を告知された時、がんというものの今は元気…と思っていたが、骨への影響で股関節はどんどん痛くなり、1ヶ月も経たずに走れなくなった。なるほどそういう病気かと不安は増すばかり。

病気に対して不安な気持ちや、走れなくなった事は、子供たちには気付かれないようにしていた。病気についても「骨が折れやすくなる病気」とだけ説明した。「がん」という言葉の強さ、与える不安、恐怖を、当事者になることで自分がはっきりと体感したから子供たちには内緒にした。


病気について調べてみた

「不安に感じるのは、それについての知識が少ない、足りないから」
仕事のときも、不安だ嫌だと感じることの原因は、それに対する知識の足りなさにあると考えるタイプなので、先ずはこの病気についてや、自分の状況をできる限り知るために情報を集めることにした。

・実は現在の医学では、完治する方法がないらしい。
→不治の病!だけど、学会においては論文も多く研究に人気?のテーマらしいことがわかった。新薬も盛んである。
・自分の病状は重く、最終ステージからのスタート。
→「5年生存率は病期Ⅰで82%、病期Ⅱで62%、病期Ⅲで40%、病期Ⅲにてがんが進行することなく生存している割合は24%」

自分は数値的に病期Ⅲであり、更にその基準に対して、余裕のダブルスコアだった。これは毎晩、自身の数値とステージ判定の表を見比べた。毎晩見比べた。見直したところでステージ判定が変わることはないけれど、受け止めきれていない自分の為か?見えてない何かに気付ける為か?わからないが、入院治療に向けての仕事の整理、治療方法を探る病院巡りをしつつ、夜な夜な病気のことを調べながらも、自身の数値と病期判定を毎晩見比べていた。


生活のすべてが変わった

36歳のクリスマスに告知を受け、37歳誕生日の2日前に入院。入院後の精密検査では、病気が更に進んでいて、骨への進行が特に大きく、腰椎(腰の骨)が大きな病巣であることが発覚。その腰椎は例えるならば「中身がなくなった卵の殻」状態。更にその殻は背中側にぽっかりと穴を開けていた。

画像4

▲第5腰椎が空っぽのレントゲン。濃い白が骨で、黒く透けているところは病巣。卵の殻になっている下のやつだけでなく、他の骨も病巣なのでスカスカしてます。

入院して2日後の誕生日のこと、整形の医師がその状況を精密検査で知り、急ぎベッドまで伝えに来て下さった。飲食トイレなど入院生活の全てをベッド上で過ごすよう指示を受けた。ベッドのリクライニングも、顔を持ち上げることもダメですと。健常から一変、ベッド上でも許される行動がさほども見当たらない、生活の殆どを介護してもらう入院生活がスタートした。退院はだいぶ先になりそうだ、むしろ病院から出られるのか?少なくとも薬漬けは免れないな、と覚悟した気持ちを覚えている。

この病気の治療法、投薬の種類、造血幹細胞移植など、それにより自身の数値がどうなることを期待するのか、医学書を数冊買うがわからないことだらけ、一行ずつ理解に努めた。でも入院生活にはその為の時間が沢山あったので、病気を勉強することは、不安だらけだった気持ちを治療への覚悟に変え、自分と向き合うことができたと思う。

自分の体は周りの皆さんにされるがままだったが、先生や看護師の皆さん、友人や家族に助けて貰いながら、沢山の命の恩人達と過ごせた時間だった。

その2につづく

=====

この記事を書いた人

画像5

小柳大輔 あつぎごちゃまぜフェス運営スタッフ
OriHimeパイロット システムエンジニア
1977年生まれ、千葉県在住。36歳で多発性骨髄腫を発症し、腰椎病理骨折→13カ月の入院生活を経て、現在は在宅療養中。完全テレワークでSEとして勤務。これまでの感謝とこれから触れ合う人々への応援を伝えるべく、分身ロボットOriHimeやオンラインツールを駆使してトークイベントや動画配信などなど、アクティブに活動している。2児の父。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?