【プロレスと私】 第5回 初めて好きになったプロレスラー、藤波辰巳(1978年)
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1978年1月23日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで、ひとりの若者が快挙を成し遂げる。
カルロス・ホセ・エストラーダが保持するWWWFジュニアヘビー級王座に新日本プロレスの藤波辰巳(現・藤波辰爾)が挑戦。ドラゴン・スープレックスで勝利をおさめた。
この日、藤波はWWWFのリングに初登場。弱冠24歳の無名レスラーが、誰も見たことがない新技でチャンピオンの座に君臨したのである。
1953年12月28日、大分県国東郡で生まれた藤波辰巳は、1970年に日本プロレスに入門。アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日の1971年12月14日に退団。猪木のもとに駆けつける。
1972年3月6日に大田区体育館で行われた(現存する日本最古のプロレス団体である)新日本プロレスの旗揚げ戦第1試合に出場。エル・フリオッソにエビ固めで敗れている。
1974年、若手選手の登龍門として開催された『第1回カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦』を制した藤波は、翌年6月から海外武者修行をスタート(西ドイツ、アメリカ、メキシコ)。その間、猪木の師匠でもある”プロレスの神様”カール・ゴッチの自宅に半年ほど住み込み、直接指導を受けている。
そして運命の1978年1月23日。初めて参戦したニューヨークのビッグマッチでタイトルを獲得。
ドラゴン・スープレックスは、カール・ゴッチの下で修業していた藤波が、ダミーの人形を相手に練習していた技で、試合で使用されたのは、この日が初めて。
WWWFは、現在のWWE。藤波は、世界最大のプロレス団体WWEのベルトを最初に巻いた日本人レスラーということになる。
野球やサッカーの日本人選手が海外で活躍することなど考えられなかった時代に、2万人以上収容するニューヨークの大会場でスタンディングオベーションに包まれた藤波は、一夜にしてスターの仲間入りを果たした。
凱旋帰国した藤波は、同年3月3日の高崎大会で、マスクド・カナディアン(正体はロディ・パイパー)をドラゴン・スープレックスで一蹴。日本中にドラゴン・ブームを巻き起こす。しかし、私が藤波辰巳というプロレスラーを意識するようになったのは、もう少し先のことになる。
チャンピオンとして帰国した藤波が参戦した『ビッグ・ファイト・シリーズ』が行なわれたのは、私が幼稚園を卒園した1978年3月(3月3~30日)で、彼の存在を知るのは小学校に通うようになってから。
いつものように、父と祖母が観ていたプロレス中継をぼんやり眺めていた。試合の日付や対戦相手はわからないが、観客にもみくちゃにされながら入場する藤波という若いレスラーを見て「すごく人気があるんだなぁ」と思った記憶がある。
はっきり覚えているのは、初めて目にしたドラゴン・ロケットの衝撃。アニメや特撮ヒーローではなく、生身の人間が場外に転落した相手めがけて飛び込んだのだから。
打点の高いドロップキックにも驚かされた。それまでに見たことのあるどのレスラーよりも美しいドロップキックだと思った。
生まれて初めてプロレスを観て興奮し、初めてプロレスラーに憧れの感情を抱いた。この日から40年以上経った今でも、藤波辰爾は私のヒーローであり続けている。
藤波辰爾選手にサインを入れてもらったジュニアヘビー級時代の入場テーマ曲「ドラゴン・スープレックス」のレコード(プロモーション用の見本盤7インチ)。
見本盤7インチに付属していた宣材シートにもサインを入れていただいた。
(つづく)
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