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『神絵師さまの言うとおり。〜イラストストーリー部門の秘密〜』<第三話>終

「センセーにプレゼントがあります」
「え、うそ、ううん、うそじゃなくて……うれしい!」
 センセーの家でひとしきりゴロゴロしたところで私は、持参していた紙袋を差し出しました。拳銃を購入した残り、貯めていたお年玉の全てを吐き出して購入したそれは――服でした。
 すっきりとした水色のシャツ、タイトなスカート、上質で深い色をしたストッキング。そして、新品の白衣。
 安物でもいいか、という思いが一瞬頭をよぎりましたが、二十代半ばの先生に似つかわしい品物を、と思ったらびっくりするくらいの出費になってしまいました。
 果して、私のプレゼントを受け取った先生の反応は予想通り――凍り付きました。
「え……え、と、これ……は?」
 普段は、よく言えばユニセックスの出来損ないみたいな恰好をしているセンセーです。膝より上のスカートなんて一枚も持っていません。女性らしいファッションに興味がない以上に、苦手と思っているのは間違いありません。
 そんな苦手なファッションを押し付けられてどう反応するべきか、センセーの脳は判断できていないようでした。数秒間、じっと固まっています。
「センセー」
 私は床の上を座ったまま移動してセンセーに近寄りました。膝がくっつきそうな位置から、先生を見上げます。
「最近の学校でのセンセー、堂々としててかっこいいです。そして、センセーはもっとキレイになれると思うんです」
「それは、ありがとう。でも、ちょっとあたしっぽくないっていうか。急にこういう格好してくるって、何デビュー? みたいな」
「着てくれないと死にたくなっちゃいます」
「う……ダメよ、そんな、軽々しく言っちゃあ。でも……わかった、着てみるね」
 センセーはそういうと、紙袋を持って脱衣所に入っていきました。
 本当に着てくれるでしょうか、という不安と、実際に着た先生を期待するワクワク。どちらかというとワクワクの方が勝っています。
「……センセー?」
「う……待って、いま出るから。っていうかこれ、もっと化粧しないと変だよ? なんかちょっと小さいっていうか、あたしが太りすぎなんだけど」
 できるだけ多くの言い訳を探しながら、もじもじした足取りで出てきた先生を見て、私は――ドキッと心臓が痛いくらいに跳ねました。
「――キレイ」
「……ほんとに?」
「私がセンセーに嘘ついたことありますか?」
「それは……どうだろう。えへへ」
 それは、本当に。本当にキレイでしたが、それと同時に――想像の数倍、いいえ、想像なんてまったくできなかったくらいに。先生は、あのイラストの金髪白衣の女性そのものに見えました。いまは白衣を羽織ってないし、金髪でもありませんでしたが。イラストの女性が脳裏にはっきりと浮かびます。
 ドクドクと、心臓の鼓動が収まりません。
「なんか、やっぱり化粧とか髪型とか、変じゃないかな?」
「ぜんぜん。いえ、そうですね。じゃあ美容院に行きましょう」
「え、いまから!?」
「予約はしてるから大丈夫です」
「予約!? え、ちょっと、原絵さん、あたしをどうするつもり!? いや、だって、髪型変えちゃったら、明日学校があるから」
「だから、学校にもそれで行けばいいんです」
「え? いや、無理無理無理。原絵さんと出かける時はいいよ? でもこれで職場は絶対に無理!」

 ◆

「……泉先生のあれ、見た?」
「見た見た! あれって……」
「ねー」
 教室の自分の席に座って、興味のないふりをしながら周りの会話に耳を澄ませます。予想以上に、センセーの変身は話題になっていました。
 なんだか言いようのないムズムズ感に、思わず唇がひきつってしまいそうでした。
 ブブッとスマホが震えてメッセージが着信しました。
 センセーから。
『ムリ』
 一言だけ。
『ムリじゃないです』
『もうトイレから出られない
 だからせめて夏休み明けからって言ったのに
 ひどい』
 はぁ。私はひとつため息をついて職員用トイレの方に向かいました。
 入口から中をのぞきます。閉まっている個室は一つだけ。
「センセー?」
 声をかけながら中に入ると、閉まっていた個室がそーっと静かに開きました。
「……原絵さん」
「センセー、お腹でも壊しましたか?」
 近づくと、がっと腕を握られて個室の中に引き込まれました。
 ……改めて、見惚れてしまいます。
 プレゼントした格好に、明るい金髪。そして今日は白衣を纏っています。
 あまりに完璧すぎて高揚感に襲われます。ああ、最初に、あの半地下の中でセンセーを見染めた私は正しかった。そんな喜びに襲われます。
 そんな私に、センセーは泣きそうになりながら言いました。
「もう、ムリ、めちゃくちゃ笑われてる。ヒかれてる」
「センセーも、そんなに取り乱すことがあるんですね」
 私はくすくす笑いながら、センセーの脇の曲線を上から下に撫でおろしました。こんな素敵なものを分厚い衣服で隠していたなんて、なんて勿体ないことをしてたんでしょう。
「ひっ」
「センセー、私のクラスの子たちもみんな言ってました。センセーの恰好、びっくりした――すごくいいって。きれい、かっこいい、憧れるって」
「うそ」
「本当です」
「……褒めてるひとがいたとしても、絶対に馬鹿にしてるひともいたでしょ?」
 多少信じてもすぐに疑ってくるこの感じはさすがです。私も下手にごまかすことはせず、正直に伝えました。
「馬鹿にしてるかどうかはわかりませんけど――そうですね。こう言ってる人はいました」
 ピクリ、と緊張感をにじませるセンセーに、囁くように伝えます。
「……『急に色気づいて、男でも出来たんじゃないの?』」
「!!」
 サッと、面白いくらいに頬が赤くなりました。
 つられてなんだか私まで頬が赤くなってしまいました。
「まあこれも、性差別的ですけど誉め言葉ではあるのかもですね。色っぽいってことですから」
「そう? そうかな? そうかも。どうだろう」
「ほら、センセー、もう授業の時間ですよ」
 私は混乱しているセンセーの背中を押して、トイレから送り出しました。

 ◆

「まさか私が、涌井先生から食事に誘われるなんて……!」
 私とセンセーは基本的に週末にしか一緒に行動しません。理由はいろいろあります。教師と生徒がごく個人的に親しくなっているなんて問題です。その理由が私の自殺――というセンセーの勘違い――だというのも問題です。さらにそこをつつくと、密輸入した拳銃の話まで出てきてしまいます。
 そういえば――拳銃。いま、私とセンセーは数学準備室にいます。センセーが、今日はもう心臓が持たないからどうしても私と話がしたい、他の先生は部活とかでいないから 、と放課後に呼び出したからですが……この数学準備室の鍵付きの棚の中。そこに拳銃がある事を、私は知っています。センセーが「家に置くと危ないからね」と口を滑らせたことからセンセーの行動範囲を調べて、数日前に特定したのです。
 一人暮らしなら自宅に置きたくなるんじゃないかと思っていましたが、センセー的には学校の方が安全だと思ったようです。もしかしたら、学校でなら見つかっても内々に処理されて大事にならないんじゃないか、また誰のものかまでは特定できずにあやふやなままで済ませられるんじゃないか、そういう思惑なのかもしれません。
「――ねえ、原絵さん、聞いてる?」
「もちろん。ナントカ先生に、食事に誘われたんですよね」
「涌井先生! 知らない? 生徒に人気のある」
「知りません。でも、なんとなくはわかります」
 具体的には思い出せません。というか興味ありません。でも、うすらぼんやりとしたイメージで、生徒たち、特に女生徒に人気のある若い男の先生がいたような気がします。たぶん、見た目が人気俳優みたいで、なんかすごいさわやかな、そんな人だったような気がします。
 センセーが、そんな好青年――そう、なんだかあまり使いたくない単語ですが、いわゆる『イケメン』というやつ、に誘われて喜んでいるのが、なんだかとても意外でした。
「そうそう、東大出身で、学生時代モデルをやってて、テニスでは全国大会に出てて、すごくトークが上手い涌井先生」
 想像以上でした。
「それだけ揃ってると、絶対に悪人な気がしてきますね、その人」
「あは、わかる」
 そういってセンセーは笑いました。いや、笑い事ではないのでは?
「でも、本当にいい人だと思うな。男女関係なく友達も多いみたいだし、悪い噂も聞かないし。やっぱり、愛されて育った人はいい人に育つのかもね。私たちには耳が痛いけど」
 センセーの生い立ちについて詳しくは聞いていませんでしたが、なんとなくの説得力がありました。これだけあか抜けた服装をしていても、きちんと感じられる日陰者の雰囲気。それは、とても好ましいものでした。
「……それで。そのナントカ先生みたいな人だと、きれいになったセンセーのことを、どんなお店に連れて行ってくれるんですか?」
「さあ、どんなお店だったんだろうね」
「……ん?」
 言い方に違和感を覚えます。
 どんなお店だったんだろうね――だった?
「――断ったんですか?」
「うん。だって、ねえ。週末がいいとか言うし。もし万が一付き合うことになったら、ねえ、拘束時間というか。今はいいかな、そういうの。……ね?」
 センセーは同意を求めるように、私に向かって微笑み首を傾けました。
 私達にはそういうのはいらないよね、とう同意を求めるような。
 仲間意識、というよりもっと、なにか親密な――
「……もう落ち着いたみたいだし、帰りますね」
「あ、うん。またね」
 なんだかセンセーのことが見てられなくて、私はあわてて数学準備室を後にしました。
 なんでしょう。
 もやもやとして気持ち。
 胸の中の、そこにある空間に、煙みたいな、でも実態のある、例えば綿菓子の様な。そんな気持ちがふわふわと漂っているようでした。
 気持ち悪い。
 落ち着かない。
 私は――金髪白衣と対決する。本当の自分になる。金髪白衣と対決する。本当の自分になる。金髪白衣と対決する。本当の自分になる。
 早歩きで廊下を進みながら三回繰り返して、ピタっと立ち止まり、壁に手をつきました。
 自分の気持ちが分かりませんでした。
 その時です。

「あれ……原絵……さん? まだ、残ってたんだ」

 声を掛けてきたのは、堂前くんでした。
 堂前くんは言いました。取り繕ったような笑顔で、こっちの様子を伺うように。

「どう、あれから……拳銃、コスプレ」

 ――なぜでしょう。
 人間ってこんなによくわからないものだったでしょうか。
 キーっとなって、ワーっとなって、とにかく、なぜだかわかりませんが、すごく、すごく、すごくすごくすごく、堂前くんの言葉に、私はイラついたのです。
 だから、満面の笑みを浮かべて言いました。
「それ、あなたに関係ありますか? というか、こんな廊下で迂闊にそんなこと言わないでください。もう二度と話しかけないで。私とあなたは関係ありません」
「え……あ、ごめ」
 強く大きく足音を立てて歩き去りました。
 ……自分で本物の自分が分からないのが、こんなに不安なことだなんて。
 知らなかった。以前も不安な毎日を送っていましたが、そこに自分という存在はありませんでした。なんの具体性もなく、ただ不安でした。ただつらかったのです。でもいまは違います。自分が自分に裏切られているような、そんな気分でした。

 そうして、私はこの文章を書き始めてから最も混乱したままに、7月16日を迎えました。
 文章をアップすることを考えたら、今日が最後のチャンス。
 事前に定めていた、Xデーです。

 ◆

 私は先生と約束を取り付けました。

『日曜日、学校で会えませんか?』
『いいよ
 どうかした?』
『相談したいことがあります』

 私はあの後もいくつか、ダークウェブで買い物をしていました。
 それを、悪魔の羽の付いたカバンにしまい込んで。
 学校へ向かいます。
 この季節、夕暮れどきは結構遅いです。
 17時に待ち合わせ。ちょうど部活が終わり始める時間です。帰宅する生徒の流れに逆らって、私は校舎に向かいました。
 休日は多くの生徒がジャージや体操服登校なので、制服姿の私は少数派でした。更にわたしはフリルの付いた黒い日傘をさしていましたし。
 校舎に入る前に空を見ました。まだまだ、青い空が広がっていました。いい天気すぎるくらいにいい天気。うだるような暑さ。熱中症警報。日傘を傘立てに置いて上履きに履き替え、二階にある数学準備室に向かいます。
 ドアを開けた瞬間に、エアコンの冷えた空気に包まれて、気持ちがいいと同時に妙に緊張を感じました。何か、心臓と背中と脳天をつなぐ神経のようななにかがキリキリと痛むようでした。
「おはよ、暑いね」
 机に座っていたセンセーが私に微笑みかけました。私もほほえみ返します。きっとぎこちない。
 センセーは完璧でした。私のプレゼントした衣装を着ていて。白衣も着ていて。金髪で。
「お茶、飲む? あ、冷たいの用意しとけばよかったね」
「いえ、大丈夫です」
 センセーは電気ケトルとティーバッグで紙コップに紅茶を入れてくれました。……これがセンセーの家だったら素敵なティーカップに、ちゃんとしたティーポットから、丁寧にお茶を入れてくれるのにな、と思いました。今日はいつもとは違うのだ、ということが私の心と体の中に浸透していきます。
 センセーが隣の席の前にカップを置いて、私に座るように促します。でも、私は立ったまま、じっとテーブルの上を見つめていました。別に何もないスチールデスク。よくわからないバインダー。センセーの仕事道具。

 ……私は今日、センセーにすべてを打ち明けるつもりでした。

 打ち明ける、なんて大げさなものではないのかもしれません。ただ、例のイラストを見せて、これがキッカケなんですよ、拳銃も自殺しようとしてたんじゃなくて、先生に服をプレゼントしたのもこれが理由で。だから……だから、どうしたらいいと思いますか? センセー。
 そう尋ねたら、センセーはなんて言うでしょうか。きっと――きっと私を褒めてくれる気がします。すごい行動力だね、たしかにこの絵、原絵さんのまんまだね、すごいね、あたしも似てる、さすがだね。褒めてくれる。そうなったら、私は…………私は…………

「――ね、プレゼントがあるの」

「……え?」
 それまで黙ってじっと私の話し出すのを待っていたセンセーが、デスクの下にあった紙袋から何かを取り出しました。上品な包み紙。一抱えもあるくらいの、薄い箱。
「開けちゃうね」
 センセーが包み紙を取り除きます。中から出てきたのは――有名メーカーの液晶タブレットでした。

 ざわ

 っと、鳥肌が立ちました。
 私は……センセーに色々なことを話しました。でも、でも……好きなイラストレーターがいることとか、絵に興味があることだけは、絶対に話しませんでした。それは、私がセンセーに近づいた根幹、イラストストーリー部門の件に気づかれてしまう可能性があったから。ジャンル的にそっちに近い話題も、ぜんぶ避けてきたのに。
 なのに、なぜ、どうして――どこまで?
「原絵さん、イラストが好きなんでしょ? だから、これでいろいろ描いてみたら楽しいかなって思って」
「……なんのことですか?」
 私の顔面が蒼白なのを見て、センセーは液タブをいったんデスクに置きました。
 作ったような笑顔で、ぽつりぽつりと話し出しました。

「実はね……悪いとはおもったんだけど……堂前」

 あ、終わった、と思いました。

「くんから聞いたの」

 いや、でも――彼はコスプレ用に拳銃を買ったとしか、知らないはずで。

「彼、ね……原絵さんにもらった拳銃の画像から元画像を検索して、びっくりしたって。あたしも見せてもらったけど、本当にびっくりしちゃった。この子、あなたに似てるし」

 何を、あの男、くそ。

「こっちの子は、あたしに似てるしね。……いまのあたしに」

「……違います」

 私の言葉は小さすぎて、センセーの耳には届きませんでした。
 でも――何が違うのでしょう。違わないじゃないですか。私は何を弁明しようとしたのでしょう。センセーは続けて言いました。

「あのね……よくあることだと思うの」

 ………………

 ………………

 ………………

 ………………

 ………………

 え?

「漫画のキャラクターに自分を重ねるのって、あたしにも覚えがあるし」

 ……このひとは、なにをいってるのでしょう。

「憧れ、っていうのかな。そういうのって悪いことじゃなくて、すごく大事なことだと思うの」

 ……よくある?
 ……わかる?
 ……あたしも?
 私が――私が、絵に描かれたんです。
 あの先生が、賞のために描きおろした絵に、私が登場しているんです。

 なにをいってるのか………………意味がわかりません。

「だからね、それを創作活動とかにぶつけるとどうかなって。スポーツ漫画が好きだったら運動! とかがいいけど、こういうイラストが好きなら、やっぱり描いてみるのがいいのかなって。あたしも結構、絵とか描くんだけど」

 ……ああ

 ああ

 ……あ~あ

 こんなひとに、私はなんの幻想を見ていたのでしょうか。
 所詮は片田舎の、冴えない女性数学教師。
 私にとって意味のある人物ではありませんでした。

 ――唯一、対決の相手として、以外は。

「……センセー、ありがとう」
「ううん、あたしの方こそ。原絵さんには色々、ありがとうだよ」

 私はデスクの上に置かれた液タブを手に取ると、重心を確かめて――最後にカレンダーを見て、今日が7月16日であることを確かめてから――センセーの頭に、それを振り下ろしました。
 生まれて初めての暴力です。
 人間が、狙って人間を気絶させられる確率ってどのくらいなのでしょう?
 漫画で見るほど簡単ではない気がします。

 だから、いま気絶したセンセーを見下ろしている私はやっぱり、特別なのでしょう。

 本当にありがとう、センセー。
 最後の最後で、私の目を覚ましてくれて。

 センセーの顔を覗き込みます。
 私は用意してきた、睡眠薬の錠剤を砕いて、センセーの口に含ませました。ダークウェブで買った後、すこし自分でも試して、効果は確認済みです。
 気絶しているセンセーに水を飲ませるのは難しそうなので、細かな錠剤を唾液か何かと一緒に飲んでくれることを期待したのですが、舌の上に乗った白い塊はまるで動いてくれません。
 私はじっとセンセーの口を見て……顔を見て、閉じられた目を見て、そっと……

 そっと、センセーの唇に口づけしました。

 舌で喉の奥へクスリを押し込むと、ごくりと喉が動きました。
 唇を離して。
 私はそのあともしばらく、先生の顔を見ていました。

 ◆

 そして私は、六月分の先生との文章を、削除しました。

 ◆

「……う、ん……」
 センセーが目を覚ましました。
 そこは数学準備室の隣の教室。成人女性を運ぶのはたぶんすごく大変だろうな、という予想はしていましたが、実際にやってみると本当にどうしようもなく大変でした。
 でも、それだけの価値はあります。
 教室は夕焼けに染まり、センセーは教壇の向こう側、黒板の前。左足には、引きずって来た時について傷。イラストよりはちょっと地味な傷ですが、十分です。
 いよいよです。
 やっとです。
 私は高揚感に自然と笑みが溢れました。
「原絵さん……これは、どういう冗談?」
「こういう冗談ですよ、センセー」
 私は手にした拳銃をセンセーに向けました。
 数学準備室の棚の奥にあったのを、バールでこじ開けて取り出したのです。
「……落ち着いて」
「落ち着いてます。本当に。ここしばらくで……いえ、生まれてから一番落ち着いています。本物の自分が何か、わかるというのは本当に、気持ちが穏やかになるものですね」
「本物の自分?」
「センセー。私の事、分かるって言いましたよね。よくあることだって。覚えがあるって。センセーはどうしたんですか? 学校の教師を命懸けで追い詰めた時、何を感じたか、教えてください、センセー」
「私は…………ッ」
 センセーは立ち上がろうとして大きくよろめき、壁に手をつこうとしてそれすらかなわず、派手に尻もちをついてしまいました。
「……薬が効いてるみたいで何よりです」
「薬?」
「強い酩酊感と催眠作用。大きな副作用はないそうですから……寝ないでくださいね、センセー」
 あまり意識が朦朧としたら……と心配していたのですが、そこは心配なさそうです。センセーは厳しい目つきで私をにらんでいました。これなら大丈夫――イラストの通りです。
「く……うう!」
「あ、センセー、ダメです」
 センセーが黒板に手をついて、扉に向かって倒れ込むように走り出しました。
 拳銃が向いているのに。私が本気では撃たないと思ったのでしょうか。
 ……まあ実際、イラストの通りになるまでは撃つつもりはありません。
 だからこその薬です。
 運動の得意じゃない私でも簡単にセンセーの襟首をつかむことができました。力づくで引っ張ると、センセーの左足がスライディングするように前に滑って、そのまま後ろに倒れました。
 ……我ながら、ちょっと驚きました。
 手入れの悪いフローリングタイルの上で派手に滑ったセンセーの左足には、はっきりとした擦り傷がついていました。更に、私が殴ったセンセーの右側頭部、そこから垂れた血が白衣に染み広がります。

 ――神がかってます。
 血のシミの形までイラスト通り?
 これは、本当に、どうかんがえても……神絵師のご加護があるとしか思えません。

 胸の奥から、細かい泡のような笑いがプクプクと湧いてきました。
 小さな笑いをかみ殺しつつ、私はセンセーに言いました。
「センセー。こっからの展開をどうするか、私、よーく考えたんです。ただ撃ち殺すのは論外です。このイラスト、見てください」
 私は改めてスマホの画面に表示した、創作大賞2023・イラストストーリー部門の課題イラストを示しました。
「ほら、センセーの表情、追い詰められてますが諦めてはいません。悲壮な決意すら感じます。それに、センセーは一発の弾丸に希望と絶望を感じながらリボルバーに装てんしています。そう、つまりこれは――ロシアンルーレットです」
「……原絵さん」
 青ざめたセンセーの見上げる目つきに向かって、私は当たり前の様なルールをわざわざ説明して見せました。
「センセーが弾をつめます。私が、弾がどこに入っているかわからないように穴を塞いでからシリンダーを回します。センセーが撃ちます。次に私が撃ちます。弾が出るまで撃ちます。ルール違反をしたら刺します」
 私は刃の太いカッターナイフをカチカチと出して教壇の上、私よりの端に置きました。
「叫んだら刺します。逃げたら刺します。私に攻撃して来たら刺します。相打ちを狙ってもいいですけどね。それはそれで楽しそうです。でも、薬が効いてることを考えたらまっとうにゲームするのがオススメですけどね」
「……そんなこと、して……あなたに何の得が」
「だから!」
 思わず口調が強くなってしまいました。
 ……笑顔でゆっくり続けます。
「……わかってるんじゃなかったんですか? センセー。私は本物の私になりたいんです」
「それで、死んじゃったら、どうしようもないじゃない」
「…………私を説得しようとしてるなら、無駄です」
 私は手元のスマホに表示したままにしている、例のイラストに目を落としました。
「私が初めてこのイラストを見た時、何をしてたかわかりますか?」
「……さあ」
「これです」
 私は左手でカッターを手に取ると、それを右手首に当てました。
 ……よーく見ると、私の右手首には、薄く細く短く浅い、傷の跡が一本。あまりに薄く、治った後はただ白くなっているだけだから、よほど見慣れた人じゃないとそうとは気づかない程度のリストカット跡。
「…………どうして」
「別に……ただ、生きづらくて……ただただ、生きづらくて。でも」
 私は懐かしむように手首を眺め、続けます。
「手首に刃を当てた所で、すごく迷ってました。私は死んでどうしたいんだろうって、手首に刃を当てたままずっと考えてたんです。結果、こう思いました……私は死ぬことによって、私をバカにした人たちを見返したかったんです。私を否定した人がみんな『ああ、俺たちが間違ってた』と思わざるを得ないような。私の死を知った人たちに『ああ、この子は本物だったんだ』と信じてもらえるような。そんな死に方がしたかった。でも、手首を切るだけじゃ足りない気がして。どうしたらいいんだろう、どう死んだらいいんだろう、そう悩んでいる最中に手首をちょっと切って痛くて、他の人がどうやってるか調べてみようと思って携帯で検索してる時にこのイラストを見つけて――天啓でした。やれ、と言われた気がしました」
「…………」
「いまなら、本物になれるんです、私」
「……原絵さん。今、もう一度改めて言うわ。…………死なないで」
「センセー、何度でも言います。私は本物になります。いまここでセンセーと対決して、どちらが死んだとしても、イタい子、思春期の思い込み、憧れへの同化願望、二次成長期のホルモンバランス……そんなのじゃない、ぜんぜん違う、本物だってみんながわかってくれると思うんです」
「そんなの……おかしい」
「そう思ってもらえて嬉しいです」
 空を見ました。夕暮れが濃くなっています。
「センセー。時間切れです、答えを。やってくれますか? それとも、私と正面から戦いますか?」
「……ちょっとまって……」
「時間稼ぎには付き合えません。人が来ない時間と場所を選んだつもりですけど、百パーセントではありませんから。十秒以内にこたえてください」
「……んん」
 先生は、黒板に背中を付けたままゆっくりと立ち上がりました。
 ふらふらで、白衣はずり落ちそうになっていましたが、ちゃんと二本の足で私の正面に立ちました。戸惑いの色は消え、まっすぐな目つきで私を見つめてきます。
「……わかった、やる。ただし、あたしやあなたが一発打つたびに、お話をさせて。あたしの話を聞いて。一発ごとに、十分でいいから」
「それだと日が暮れてしまいます。いえ、比喩じゃなくて、本当に日没してしまいます」
 私はスマホのガジェット表示に目を落して、現在地の日没時間を確認しました。あと十五分……
「明るいうちに決着をつけないと、イラスト通りとは言えませんから」
 拳銃のシリンダーは五発詰め。確率は五分の一。
「最大五発……じゃないか、五発目には必ず発射されるんですもんね。だから、最長でも四発分。なら、一発に付き三分。それなら、日が暮れる前に終わります」
「……わかった、三分ね。あたしと話をしている間にやめたくなったら、いつでもやめていいから」
「センセー、これ以上は一発撃ってから話してください。さあ、まずは弾丸を込めて」
 私は拳銃のシリンダーを開き、弾丸を取り出しました。
 そのまま、一発の弾だけを添えてセンセーの方へ。
「入れ方は分かりますか?」
「ええ……あなたが教えてくれたから」

 カチリ

 ……宗教における奇跡の瞬間とは、こういうものなのかもしれません。
 なんどもイラストで目にして、実在を信じてきたその瞬間。
 それがいま、まさに、訪れました。

 センセーが、リボルバーに一発の銃弾を込めました。
 夕焼けが、燃え盛っています。

 読者のみなさんに説明が遅れました。
 私はロシアンルーレットをしながらこのメモを書いています。
 メモはリアルタイムでクラウドにアップされていて、もし私が死んだら明日、自動的に堂前くんのメールアドレスにそのメモへの共有リンクを送る設定になっています。
 頑張りました。機械音痴でも必死になればこれくらいの設定はできるものです。
 メールには、これまでのすべてを説明し、創作大賞への応募をお願いする文章もつけています。だから、もし文章が途中で途切れていたら、そういうことです。堂前くんが、事後の説明を書いてくれるかもしれませんが。
 かなうなら、最後まで私の手で、この作品を仕上げたいと思います。

 ◆

「……以前にした説明を、もう一度しますね。その拳銃は通販で買いました。撃ったことが無いので、本物かどうかは分かりません」
 私はセンセーが確かに一発の弾丸を入れたことを確認すると、あらかじめ用意していたアルミホイルで穴を塞ぎました。よく見ればどこかわかるかもしれませんが、よく見なかったのでもうわかりません。外れの穴はアルミホイルだけ、当たりの穴はアルミホイル一枚を挟んで実弾です。シリンダーを無作為に回して、センセーに差し出します。
「……そう、ね。弾が出ないことも、ありえるんだもんね」
 どっちが先か、というのでモメるかと思いましたが、センセーは何も言わずに拳銃を受け取りました。それをこめかみに当てます。
「…………ごめん、ちょっと待って」
「ダメです。三、二、一」
 カチン
 あっさりすぎてびっくりしました。最初の一発が一番の難所だと思っていました。どうしてもダメなら私から撃つしかないかと。先生の指を引かせたのは、教師としての誇りでしょうか。純粋に、敬意と――好感を抱きました。
「聞いて」
 私は慌ててスマホのストップウォッチ画面を開いて、スタートボタンを押しました。残り時間、三分。
「もうやめて、二人で一緒に帰りましょ。私はこのことを誰にも言わない。秘密にする。帰りにハワイアンパンケーキをおごるから。トッピングは無制限。で、お腹いっぱいになったら家に帰って、オフロに入って温まって、ベッドの上でぎゅーって背伸びしてから、寝る。疲れが取れて、明日も祝日。休日明けには、これまでと同じ生活がちょっと充実して感じられるはず。死線を超えたんですもの。ただ生きてるだけで得したような気分、最高だと思わない?」
 センセーの声は、すこしだけ震えていました。それでもきちんと言い切って、偉いと思いました。そんなセンセーに、私は答えました。
「センセー。いままでで一番、熱がこもってて……嘘っぽい言葉ですね」
 時間感覚が狂っているのか、そんなに時間がたっているとは思わないのに、ストップウォッチを見るとすでに三分が断っていました。
 私は自分のこめかみに向けて引き金を引きました。

 かちん

 はずれ。

「センセー、どうぞ」
 拳銃をセンセーに。センセーはそれを受け取ると、再び口を開きました。
「……こんなことをしても、あなたは特別にはなれないわ」
 ストップウォッチを操作します。
「結局、馬鹿なことをした子って扱いですべて終わってしまう。いっときの感情にまかせて極端なことをする人を、世の中の人は本物とは思わない。時間をかけて何かを成し遂げた人こそ本物だわ。あなたの好きなイラストレーターの先生だってそうでしょう? 成し遂げたから本物なの。今この瞬間だけでは本物にはなれない。あなたは結局、あなたの願う本物にはなれない。命までかけて、これってあんまりだわ」
「なるほど、確かにそうかもしれませんね」

 三分。

「でも私はそうは思いません。どうぞ、センセー」
 私に微笑まれて、センセーは眉間にしわを寄せました。
「…………」
 銃が偽物かもしれない。
 これは本当です。そしてとても大事なことです。
 人を動かすのは絶望ではなく希望だと、どこかの漫画で言っていました。確かにそうだと思います。

 カチン。

 センセーが三分の一の引き金を引いたのは絶対、弾なんて出ないと思っているからのような気がしました。
 残り二分の一です。
 私は拳銃を受け取りました。
 今度は何も言われる前に、ストップウォッチをスタートします。
「ねえ……あたしと一緒に、これからのことを考えましょう。あなたはまだ十五歳よ。これからいくらでもすごい人になるチャンスは有るわ。あたしも手伝うから、いいでしょ?」
「これからどれだけ時間が合っても、すごい十五歳になるチャンスはいましかありません。私が十五歳の時点で本物だってことの証明は今しかできないんです」
「そんなことない。むしろ逆だよ。人生はあとになればなるほど、真実が見えてくるものだから。一時的にモテたとか、人気があったとか、クラスの中心だったとか、いじめっこだったとか、いじめられっ子だったとか、そんなことがなんの本質でもなかったってわかる日が来る。あなたにはいろんなパラメーターがあるのに、そんほとんどに存在すら気づいていない。十五歳のあなたを評価するのに、十五歳は若すぎる」

 三分。

 私は拳銃をこめかみに向けました。

「――やめて!」

 カチン

 ……なんてあっけない。決着です。残りは、一分の一。
 最後に止めた先生の声は、私を案じてのことか、自分の結末が決まることへの恐怖からか。もちろん拳銃が偽物、銃弾が不発、いろんな可能性がありますが……私は信じています。銃弾は発射されると。神絵師さまのご加護があるのですから。
 私は先生に拳銃を向けました。
「センセー。最後に自分で撃つのは大変ですよね。大丈夫。私が撃ちます」
「……三分、計って」
 ここにきて、何を話すというのか。

 最後の三分が始まります。

 ◆

「……堂前信二くん。彼はあたしに、あなたのことを話したわ」
「……何の話ですか?」
 ここで急に堂前くんの話が出てくるとは思いませんでした。
 センセーは、なんでしょう、何か……表情が、一変して見えました。
「彼はあなたのことが好きなのね。でも、彼、愛情はあるけど理解が足りないと思わない? 献身的だけど、思慮に欠けてると思わない? あなたの秘密を、あたしに話すなんて」
 ますます意味がわかりません。
 私の理解が追い付きません。
 センセーは続けます。
「あなたも同じね。イラストを描いた先生のこと、本当にわかってる?」
「は?」
 瞬間的に殺意が膨らみます。この上ない侮辱。
 でも、その殺意が行動に移るより先に、センセーは次々に言葉を繋げます。
「あたしも人間関係は苦手だけど、それでもこの年まで生きてこられたのは疑い深いからだと思う。この人は本当は何を考えてるんだろう? 何をして欲しいと思ってるんだろう? そういうことを凄く考えるから、いまの仕事も出来てるし、今日もこんなことができてる」
 ……異様な違和感。
 最後は泣いて止めてくるとでも思ったのですが。
 センセーは見たこともない無表情で呟いていました。
「これは最後のヒントよ、ハラエさん。引き金を引くかどうか、よく考えて」
 ……間もなく三分。ストップウォッチを止めようとした寸前、センセーが言った一言が、私の頭を殴ったかのような衝撃で――

「そのイラストを描いたのは、あたしよ、原絵さん」

 無表情だった先生が笑います。
「学生デビューして週刊少年ジャンプで連載してイラストレーターとして仕事して、いまは充電中――副業に、教師なんてやってみちゃったりして」
 おどけた表情。見慣れたような表情なのに、誰だかわからないような……なに、これ。
 心臓がバクバクと、どうかしているくらいに高鳴っています。
 ダメ押しの様に、センセーが……センセーが? そこにいる女性が、一言。
「あなたに似たイラスト。本心ではどう考えてたの? 偶然? そんなことある? 現実的に考えたら、あなたを知ってる人が描いたに決まってるじゃない。じゃあ誰? ね、このイラストを描いたのは私なのよ、原絵ちゃん」
 その、暗く暗く暗くて暗い瞳に射抜かれた私は、混乱して、咄嗟に、最終的に、思わず、はっきりと――

「――いや、先生が教師なんてやってるわけないじゃないですか」

 パン

 思い切り引き金を引きました。

 ◆

 ……したくもない、追記をします。
 これは義務です。
 筆を折りたい。
 このままぜんぶなかったことにしたい。

 でもしょうがないから書きます。
 私は……私は本物になれませんでした。

 まず、説明しましょう。
 拳銃から放たれたのは銃弾ではなく……万国旗でした。
 パン、という軽い音ともに、細く長い万国旗が私と彼女との間に垂れ下がりました。
 ……不発、とか、空砲、とかなら想定の範囲内でした。
 でも全く想定していなかったそのふざけた絵面に私が凍り付いていると――
「――あはははは! だから言ったのに、やめなって。かっこいいのは私の描いたイラストの中だけだったねぇ残念。いったん人に預けたものを信じちゃいけなかったね」
 そういって、彼女は笑いました。
 私の憧れの先生を侮辱する言葉を吐きながら。
「……あなたが、あのイラストを描いた先生のはずありません」
「なんでそう思うの?」
「だって……漫画家デビューしたのに、なんで教師になんて」
「うん、教師になるつもりはなかったけど、ネタになると思って学校で教職課程は取ってたの」
「でも、週刊連載しながらなんて、できるわけありません」
「そ、連載中は休学だったの。中退するつもりだったけど一応ね。まさか復学することになるなんて思わなかったけど。人生いろいろね」
「だいたい、イラストの仕事をしながら教師なんて出来るわけないです」
「意外とできるのよ。担任クラスを持ってるわけじゃないし。液タブさえあればどこでも描けるしね。隙間時間にだって。まあ、専業でゴリゴリの人より、仕事量はセーブせざるを得ないけど」
「だからって、なんでわざわざ、どうして教師なんて」

「あなたみたいな子を探すためよ」

 彼女は私に向かって輝くような表情で目を細めました。
 いつの間にか日が暮れて、夕焼けも終わり、それででいてまだ空が明るい、気持ちの悪い時間帯。本当はもうすでに、夕焼けのなかですべてが終わっていたはずなのに、予定外の延長戦のせいで、迷い込んだ黄昏時。
「インスピレーション、創作の女神、私のミューズ。私は天才じゃないから閃きには素材が必要だったの。だから試しに学校に来てみた。教師をやってみた。あなたを見つけた。大成功」
 うっとりとした表情で、視線を流します。
「クラスで浮いてるあなた。虐げられて忌み嫌われて、なのに何かを貫いて、もう死にそうだったあなた。私はあなたをモデルにしたキャラクターを描いてみたくなったの。あなたの弱さが反転して、その思い込みがあふれる姿を描きたかったの。それがまさか、こんな展開になるなんて思いもよらなかったけど――嘘。ちょっと期待はしてたかな」
 くすりと笑って、自分の口元に指を這わせます。
「あなたはまるで私のイラストそのものになってくれた。期待通りに」
 そう言って次の瞬間……その表情から輝きが消えました。

「――そして所詮はそれまでだった」

「……は?」
「私のイラストを超える何かを見せてくれるかと思ったけど。残念。所詮は模倣。コスプレとしては一流かもしれないけど、ファンアートとしてなら悪くないかもしれないけど。私があなたに求めたものはそれじゃなかったから、残念。イミテーションだったわね、しょせん」
 そういって、彼女は細く長くため息をつきました。
 未だ理解は追いつきませんが、それでも、心の底からの言葉が湧いて出ました。
「……先生がそんなこと言うはずありません。あなたは偽物です。先生の名を騙って私をばかにするために。この場を言い逃れるために」
「逃れるもなにも、ここにある銃弾は全部偽物よ? 何から逃げる必要があるっていうの?」
「こっちには刃物があります。あなたに使った薬は本物のはずです」
「あー、そういえばそうね。まだフラフラする。どうしましょう。あ、そーだ」
 彼女は少し上体をふらつかせた後、白衣のポケットに両手をつっこみごそごそとし始めました。そのまま、こちらに視線を向けます。
「ねえ原絵ちゃん。さっき、液タブプレゼントしてイラストを描いたら? って勧めたときに、どうして断ったの? あのとき引き受けてたら、私の弟子になれたのに。アシスタントとかになれてたかも。同僚になれてたかも。本物になれたかもしれないのに」
「……偽物のくせに」
「それがあなたの本質。愚かで傲慢、身勝手で幼い。だからこそ、あなたをモデルにしたのだけど。それゆえに、あなたはモデルどまりだったわね……」
 彼女はポケットから耳栓と、何か、楕円形の機械を取りだしました。携帯、は当然取り上げてるので違います。あれは、ボタン? なんの? と思った瞬間、

「この学校ではそこそこ楽しめたわ。インスピレーションをありがとう。……ちなみに音の周波数も、数学よ」

 耳栓をした彼女が、ボタンを押しました。

 ――ババババババババ!!!!!!!!!!!!!!

 教室のスピーカーから、途方もない音量の不快なノイズの塊が流れてきました。
 痛い、視界がぶれて、目の奥、というより頭の中がヤスリで削られるような痛みに、涙が壊れて、私は痛みに……

 ……後で堂前くんに聞きました。
 音響兵器。米軍では二十年近く前から実用化されている非殺傷兵器。本来は超指向性スピーカーが必要だそうですが、密室で近距離なら力技で再現可能。

 そして――

 ◆

 ――そして、7月17日
 猛暑日でした。

 私は朝から、センセーの家に向かいました。
 毎週末通ったマンション。
 パスワードを使ったオートロックの解錠方法も教えて貰っています。
 五階にあるセンセーの部屋。
 ノブに手を掛けると、何の抵抗も無く扉が開きました。
 そこはもう、もぬけの殻でした。
 ……踵を返して、立ち去ります。
 なんというか、不思議な気持ちでした。
 私は、センセーが消え去っていてほしいと思っていました。
 そこにセンセーがいたら、どうしたらいいかわからなかったでしょう。

 いいえ、センセーではなく、あの偽物。

 帰り道、携帯で学校に電話をしました。
 びっくりするくらい素早く、半コールくらいで男性が電話を取りました。
「はい、海老原中学ですが」
「泉センセーが辞めたって本当ですか?」
「え、おまえどうしてそれを――」
 電話を切ります。

 ――消えた。

 消えた。

 偽物。

 偽物。

 ……私はこれから、こんな不思議な経験をした、という思い出を胸に生きていくのでしょうか。そしてそれを思い出すたびに、思わされるのでしょうか。
 偽物に見限られた、と。センセーに見捨てられた、と。
 気が付くと、炎天下で私は足を止めていました。
 ぐるぐると頭の中が渦巻いています。
 ……いやだ。
 許せない。
 私のことを何もわかってない。
 私の気持ちもぜんぜんわかってない。
 そう、わかっていない。
 あんな適当な別れの挨拶をして。
 私が諦めるとでも思っているのか。

 ほら、ぜんぜんわかっていない。

 ◆

 堂前くんを呼び出すと、すぐに駅前まで走ってきてくれました
 どうやら私のことを好きらしい堂前くんに、私はこれまでに起きたすべてのことを話しました。
「……嘘?」
「嘘じゃないです、ほんとーです」
 言いながら、私は堂前くんのきょとんとした顔に見入っていました。
「……よくみると面白い顔してますね」
「え、わ、ぶぅ」
 私は堂前くんの分厚い唇をつまんでみました。放す瞬間、変な音がしました。
 照れたような緊張したような、神妙な顔つきで唇を擦っている堂前くんに、ふと思いついて言いました。
「ちなみにあなたは、愛情はあるけど理解が足りず、献身的だけど思慮に欠けるらしいですよ」
「なにそれ。ごめん。でもしょうがないっていうか……人間ってそういうものじゃない?」
「……あはっ」

 思わず笑ってしまいました。
 私はあの偽物に同じことを言われたとき、相手を殺そうと思ったのに。
 彼は、ごめん、でも人間ってそういうものだ、と。

 思わず堂前くんの唇を当社比三百%までひっぱってしまいました。

 ……いいでしょう。なんだか頭がすっきりしてきて、考えがまとまってきました。
 私は先生のイラストの通りの、それ以上のものになります。
 そうして、あの偽物を見返してやるのです。その為に、ここから成長するのです。
 それが先生が私に課した本当の使命に違いありません。
 本物の先生の期待に答えるべく、私はあの偽物を追跡することに決めました。

 明日、7月18日から始まるこの顛末について、書く機会が訪れるかはわかりません。
 なぜなら、イラストストーリー部門の締切が今日、7月17日だからです。
 ひとまずここまででアップするしかありません。
 推敲する暇もないので、ところどころ拙いかもしれませんが、嘘は書いてないつもりです。
 いやなことも全部ちゃんと書きました。
 これを呼んだ先生は、まさか自分の偽者が存在して、こんなことをしているなんて……と心を痛めているかもしれませんが、安心してください。

 先生の偽物は、私が倒します。


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