救急医が提案、高齢者の低栄養を解決する「栄養手帳」アプリ:Reinvent health・酒井和也
医師として10年以上、救命救急に従事している酒井和也(さかい・かずや)さんは、2022年11月にReinvent health株式会社を立ち上げました。
患者と向き合う中で、多くの高齢患者が「低栄養」に陥っていることに課題があると感じた酒井さんは、勤務医の仕事を続けながら起業。「テクノロジーを活用して、新しい『健康体験』を創る」をミッションに、高齢者と「食」をつなぐ事業の立ち上げを進めています。
救急車で運ばれてくる高齢者の多くが「低栄養」
健康な体を維持するための栄養素が足りていない状態を「低栄養」と呼びます。特に高齢者の低栄養については、厚生労働省も要介護や総死亡リスクを高めると指摘しています。
同省の2019年の調査によると、日本における85歳以上の高齢者のうち、男性17.2%、女性27.9%が低栄養傾向です(*1)。また、医療を受けている高齢者に限れば、75%が低栄養状態にあるとの報告もあります(*2)。
10年以上にわたり患者を診てきた酒井さんも次のように指摘します。
「救命救急の現場には、多くの高齢者が救急車で運ばれてきます。脱水や肺炎などさまざまな病状がありますが、よくよく話を聞いてみると、ご飯を食べられなくなったことで体が弱り、免疫力が落ちて病気になってしまった人が多いことに気づきました。患者の家族に食事について聞いても、食べる量が日々少しずつ減っていくので、なかなか気づけません。これは大きな問題だと考えるようになりました」
そうは言っても「食べられない」という問題に対して「医師ができることはほとんどない」と酒井さん。そこで、医師としてはない、新たな解決の糸口を模索。その過程で、世の中にさまざまな「食」のソリューションがあるのに、それが高齢者とマッチしていないことに気がつきました。
「おいしそうな介護食や特定保健用食品、配食サービスなどが山のようにあるのに、それらが高齢者に届いていないことがわかったんです。両者を結びつけてあげたら課題解決につながるのではと考え、サービス開発に乗り出しました」
お薬手帳ならぬ“栄養手帳”で、高齢者の栄養状態を可視化
酒井さんが進めているサービス開発には、2つの軸があります。1つは「栄養手帳」の開発、もう1つは、その栄養手帳のデータを基に、その人の状態に合ったメニューやおいしい商品を提案するサービスです。
まずは栄養手帳について話を聞きました。
「お薬手帳の栄養版というイメージです。高齢者の栄養や体の状態を見える化し、ご本人や家族、介護施設の職員が利用者の健康状態を把握できるようにします。現在は管理栄養士や医師の協力のもと、アプリ開発の準備を進めているところです。
また、当社は2023年12月に医療法人社団ユニメディコと業務提携をしました。ユニメディコは在宅医療を中心としたサービスを提供していて、在宅医療を受けた患者の健康状態などのデータを保有しています。これを今後のサービス開発に生かしていきたいです」
栄養手帳への入力は、基本的に管理栄養士が行うことを想定しているそうです。
「あまりなじみがないかもしれませんが、管理栄養士は病院のほか、調剤薬局やドラッグストアにいて、栄養相談などにも対応しています。しかし、現状では活躍の場が限られており、自分たちの価値を発揮しきれていない現状に課題を感じているそうです。
そこで現在、「日本栄養士会」と協力し、同会が全国で400店舗を展開する「栄養ケア・ステーション」に、栄養手帳を導入できないかを模索しています。栄養手帳の情報があれば、栄養士もそれを活用してさらなる価値提供が可能ですし、栄養に関する社会的認知も高めていけるのではないか、と考えています」
「健康を謳わない」ことが大切
栄養手帳と同時に、Reinvent healthがサービス開発を進めているもう1つの軸が、高齢者の栄養状態に合った食の提案です。
「Uber Eatsや出前館のように、食べたいものを検索して購入できるようなサービスを検討しています。高齢者が『今日はお寿司が食べたい』と思ったら、『栄養手帳』に登録されている栄養情報や嚥下(食べ物を飲み込むこと)機能に合わせたお寿司のメニューや商品を提案できるプラットフォームをつくりたいです」
このときに重要なのは、「健康をうたわない」ことだと酒井さんは続けます。
「『これを食べたら健康になります』とか『嚥下しにくいからこの柔らかい食べ物がいいですよ』という勧め方はしません。医療従事者や健康の専門家が、健康を前面に押し出して何かを勧めると、人は『本当はそれが体に良い』とわかっていても拒否したくなります。それが、さまざまなヒアリングを通してわかったインサイトです」
では具体的にどのようなアプローチをすべきなのでしょうか。それを探るために、酒井さんは現在、介護施設とタッグを組み、仮説検証に取り組んでいます。
「介護施設に入所されているお年寄りは、食べ物を飲み込む力が弱い人が多いです。家族が面会の手土産として食べ物を買って来るのですが、飲み込む力と合わなくて、むせて肺炎になってしまう人もいます。家族からすれば、普段会えないからこそ特別なことをしてあげたいという思いがあってのことなのですが……。
そこで私たちは、そのお年寄りの嚥下状態に合ったもので、かつ特別感のある食べ物、例えば本当においしそうなおやつやゼリーなどを家族に提案しています。『こういうプレゼントがありますよ』とチラシを渡して、購入率やリピートの度合いなどを検証しています」
医療系のスタートアップで経験を積む
酒井さんは現在、週末だけ医師として働き、平日は事業立ち上げに注力しています。
医療の最前線で経験を積みながらも、前述の通り、医師としてではない新たな問題解決の糸口を模索していました。
その中で、2021年11月には、医療系のスタートアップにエンジニアとして参画し、経験を積みました。
「医師とは異なる形でも、これほど前に医療や介護に携われるんだという可能性を知った」ことは、その後のReinvent health創業にあたっての大きな経験になったそうです。
また、長く医師という特殊な環境で働いてきた酒井さんですが、事業に取り組み始めてからは「いかに経済システムを知らなかったか」を痛感したと話します。
「KSAPに採択された時点では、管理栄養士向けの業務支援アプリを開発しようと考えていました。しかし仮説検証を繰り返すうちにそれがビジネスにならないことがわかったんです。課題を解決できることと事業性はまた別の話なのだと痛感しました」
みんなが「勝手に健康になる」世界線をつくりたい
最後に、酒井さんが目指すゴールを聞くと「みんなが勝手に健康になる世界線をつくりたい」との答えでした。
「日本は医療のインフラが整っています。だからこそデジタルの力を使って、ラストワンマイルさえつなげれば、高いお金を払って健康になる必要のない、勝手に健康になれる世界が実現できるはずです。
また、ゆくゆくは災害時でのアプリ利用を進めていきたいと考えています。避難所では災害食が配られるのですが、高齢者に合わない食事が出てきて、塩分過多やカロリーの問題などで具合が悪くなったり体調が急変したりといったことがしばしば起こります。高齢者向けの備蓄食はあるものの、避難所では目の前のお年寄りが何を食べられるか誰も知らないし、本人でもわかっていないことがあります。しかし栄養手帳アプリがあれば、その問題を解決できると思っています」
Reinvent healthについて>
https://reinvent-health.com/