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会社を、辞めた

会社を、辞めた。
31年間と少しの間、籍を置いた。好きな会社だった。正直、辞めるという決断をするには、かなりの時間と勇気が要った。

辞めた主な理由は、健康問題である。

わたしには、持病がある。
鬱病である。
元々、鬱病になりやすいといわれる性格ではあった。完璧主義で、責任感は強い方。仕事などを人に頼まれると嫌とは言えない。状況の変化に適応することも、決して得意ではない。
症状として出始めたのは、20年くらい前である。
ビジネスでもプライベートでも、ものすごくしんどい時期があった。しんどさを忘れようと仕事に打ちこんだ。それがよくなかった。
不眠。食欲不振。下痢。早朝覚醒。昼間の眠気。ヒステリー球。そして、気分の激しい落ちこみ。
それでも、頑張った。わたしがいなければ職場が回らない、そう思いこんでいた。
鬱病であることをカミングアウトする自信もなかった。通院などの都合で、歴代の上司には告げていたが、同僚たちには告げなかった。

以前、「本が読めなくなった」「小説が書けなくなった」という話をnoteに書いた。
これも、鬱病の影響である、と思う。



楽しみだったさだまさしのコンサートに行っても、トークで笑えなくなっていた。
友人からの誘いも断るようになっていた。楽しむ自信がなかったし、鬱病であることを知られたくなかった。

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2017年春、3回目の傷病休職に入った。
期限は有給が2021年夏まで。以後は無給で1年。入社以来、これまで使われずに消滅した有給休暇を含めると、そういう計算になるようだった。
ここまで待ってくれる会社に、感謝した。

休職中、ごろごろしつつ、いろいろ考えた。
主なテーマは2点。なぜ鬱病になったのか、そして今後職場復帰は可能なのかであった。

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まず、鬱病の根本的な原因について。
これは、おそらく、解決しないだろうというのが、今のところの結論である。

わたしには、ある、身体的な特徴がある。
昔なら奇形と呼ばれただろう。生まれた時からのものである。
両親も医師たちも、できるだけのことをしてくれた。だが、いわゆる「普通の人」と同じようには決してならない。
身体障害者手帳を持つレベルではない。だから、「普通の子」と同じように育てられた。
その結果、知能は正常だが、性格はやや歪んでコンプレックスを抱えた、わたしという人間が出来上がってしまった。
無理もない。わたしのような子どもを育てるノウハウを持った親や教師なんて、この世にいるはずはないのだ。特に、わたしがまだ子どもだった時代には。

わたしの性格、完璧主義で、責任感は強くて、仕事などを人に頼まれると嫌とは言えず、状況の変化に適応するのが苦手な性格は、このコンプレックスから生じているらしい。
だとすると、天地がひっくり返っても、寛解は無理だ。
死ぬまで、薬を飲みつつ、鬱病とつきあっていくしかない。

もしかすると、発達障害というものでもあるのかもしれない。
診断は受けていない。わたしの小さかったころには、そういう概念はなかった。知能は正常なのだから、50代にもなって今さら診断を受けても、とも思う。

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仕事のことも考えた。
いくら考えても、復帰は無理だ、という結論しか出なかった。

わたしの勤務先は新聞社。主な職場は、資料部門である。
新聞や図書や雑誌を管理する部署。社内の図書館、といえば分かりやすいだろうか。図書館業界での用語で「レファレンス」と呼ばれる問い合わせ対応も行う。
バブル期に、そういう区分での定期採用の募集があった。図書館学を学んだ者が対象。わたしは図書館学専攻ではないが、図書館に関心があったので、授業に顔を出していたところ、お声がかかった。
試験と2度の面接を、何とかくぐり抜け、採用された。正社員としての採用であった。当時は、非正規での採用は一般的ではなかった。
仕事は楽しかった。天職だと思っていた。

それが、今は、苦痛である。
本が読めない。新しい本が発売されても、職場で購入するべき本なのかどうか、読んで判断することができない。
新聞も読めない。1つの記事を断片的には読むことはできる、でも、一個面を隅から隅まで丸ごと読むようなことはできない。
職場ではそんなことは言えない。隠していた。読んだふりをしていた。

でも、もう無理だ。
これ以上、会社を、職場の皆を欺きたくない。
こんな低いレベルの仕事をしてお給料をいただくのは、わたしの職業人としての良心が許さない。

職場の事情も、わたしが大阪に来た二十数年前とは、だいぶ変わっていた。
非正規のスタッフが増える一方、正社員が次々と他の部署に回されていった。そのスタッフも、だんだん人数が減っていく。
本や雑誌の購入予算も減らされていった。
直接売り上げに関わらない、お金にならない部署である。利用する人はよく利用するけれど、利用しない人はまったく使わない。そんな部署にお金をかけていられない、かける余裕がないということなのだろう。

そして、他の部署も似たようなものであると分かっていた。

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辞めよう。
そう決断したのは、社が希望退職を募っているという話を聞いたときだった。

鬱病の患者に決断はタブーとされている。物事を悪い方に考えて、場合によっては取り返しのつかない事態になってしまうから。でも、今回の決断には、我ながら自信があった。親や主治医をはじめ、他人にも相談した。

辞めても次の仕事のあてはない。
会社が人材派遣会社を紹介してくれるという話もあったが、断った。一応病人である。それに、わたしのようなニッチな人材の募集がそうそうあるとは思えない。

幸い、住む家はある。退職金も、割り増しされて出る。それでしばらく食いつなこう、と思った。

図書館司書の資格は、確か、ない。遠い昔、大学で講義は受けていたが、4年生後期の2単位か4単位を落としたはずだ。
仮に司書の資格があったとしても、50代半ば、鬱病持ちの女を採用する図書館はないだろう。

地元の公共図書館も、利用者として覗いた。
事情はわたしの職場と同じであるようだった。カウンターで働くのは、若い、おそらく非正規と思われるスタッフたちだった。

ネットの求人情報も覗いた。
求人そのものが少ない。あっても、求められているのは、2、3年間で首を切れる、非正規で安く使える人間。企業での経験があるベテランは求められていない様子だった。

もう、日本はそういう国になってしまっているようだった。
絶望するしかなかった。

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5月31日、わたしは、最後の手続きをしに、大阪市内の会社に行った。
大安吉日。よく晴れた日だった。御堂筋沿いの植え込みに、昼顔の花が咲いていた。


大阪市は新型コロナウイルスの緊急事態宣言が延長されていた。会社の入っているビルも、何となく、活気がなかった。地下にある食堂街は、シャッターを閉めているお店が多かった。面談で来るたびに寄っていた書店も、文具店も、店を閉じていた。

コロナ禍でお気に入りの店みな閉店キッチンジローもデルフォニックスも

長すぎるので、ふだん短歌は詠まない。だが、今回はつい詠んでしまった。

上司は親切にしてくれたが、忙しいようだった。テレワークで出勤者が少ないことも影響しているようだった。

手続きを済ませ、早めに社を辞した。
涙が出ないのが、自分でも不思議だった。

帰り道、薔薇の花壇に目が行った。
オレンジ色の薔薇が咲き残っていた。品種名は「Vive les Vacances!」。フランス語で「バカンス万歳!」という意味、だと思う。

こうして、わたしの、いつ終わるとも知れぬバカンスは、始まった。


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