父の性質を映す ~主の祈り(Ja)
今日は2022年5月6日のパワーシティ教会の礼拝メッセージを翻訳・要約しお伝えします。
📖テモテへの第二の手紙 2:15 口語訳
“15 あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。”
パウロは旧約聖書を「真理の言葉」と呼んでいますが、「正しく分割すること」が必要と言っています(上記「正しく教え」は英語欽定訳では「ライトリー・ディバイディング=正しく分割し」と書いてあります)。 旧約聖書は真理の言葉ですが、異なった文体の書かれ方、その読み方など、正しく分割されなければならない。分割=「オトトミオー」ギリシャ語では、部分部分を切り開く、という意味です。
●さて、モーセが聴き手に伝える際に用いた考えとして、「父」という概念(がいねん)を取り上げました。聖書最初の五巻の本、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記、ここにはモーセの教えが記録されています。モーセが人々にメッセージを説いた後、私たちが見られるように書物に記録されました。 モーセが聴衆に向かって、「初めに、神は天と地を創造された(創世記1:1)」と言ったとき、モーセは地球の上空にある物理的な天国のことを話していたのではないのです。モーセは、霊的な現実を伝えるために、たとえ話を使ったのです。そしてイエス様もそうです。
📖マタイによる福音書 6:9-13 口語訳
“9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、 天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。10 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。11 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。”
●「私たちの日ごとの食物(パン・糧=かて、とある翻訳版もあります)を今日も与えたまえ」とあります。教会はときにこの聖句の「糧(かて)」を家や車に置き換えたり、それを供給されることだと言ってきました。いいえ、それは比喩 (ひゆ)表現です。「日ごとの糧」というのは、ギリシャ語の「エポウシオス」=「次の日/来たる日」の糧(パン)を与えてください、という意味です。来たる日のパン、これは比喩表現です。何が来たる日なのでしょう? 御国(王国)がきますように。ここはつながっていて、「来たるべきあなたの王国のパンを我らに与えてください」です。パンという言葉を使いますが、イエス様は旧約聖書から教えているので、旧約聖書のどこにパンがあるかというと、
📖申命記 8:3 口語訳
"3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。"
さて、「マナ」はパンや菓子のような食べ物ですが、ヘブライ語では「これは何だろう?」という意味です。このマナは何ですか?
📖詩篇78篇:1-3、24 口語訳
“ 1 わが民よ、わが教を聞き、わが口の言葉に耳を傾けよ。 2 わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、 なぞを語ろう。 3 これはわれらがさきに聞いて知ったこと、またわれらの先祖たちがわれらに語り伝えたことである。 24 彼らの上にマナを降らせて食べさせ、天の穀物を彼らに与えられた。”
●それはどういう意味ですか? つまりマナはなぞなぞ(たとえ)であったということです。上記詩編78編2節には、「世界の古来からの、隠されてきた私(神)の言葉を、なぞなぞ(たとえ、謎かけ)によって語ろう、」と書かれています。 だから、「神の口から出るすべてのことばから生きる」、マナは食物として彼らに与えられたのですが、それで彼らは、 神様の言葉が食物であることを知ることができたのです。つまりマナは、霊の糧(かて)である神様の言葉を象徴しているのです。ですから、彼らは食べ物、物理的な糧によって生きるのではなく、神様のあらゆる言葉によって生きることを知ることができるのです。では、申命記における神様の言葉とは何でしょうか。それは、「永遠の命の約束」 です。神様の言葉は、御霊の約束です。神様の言葉は、約束の地の約束です。神様の言葉は、救いと解放の約束です。
つまり、イエス様がその祈りをされたとき、「来たる日のパン(来たる日の約束の言葉)、あなたの来たるべき王国のパン(約束の言葉)、あなたが創世記12章でアブラハムにした約束のパン(言葉)、その来たる御国の約束の言葉を私たちにください」と言ったのです。つまり、人は「神様の約束」によって生きるということです。ですから、そのような祈りの形式は、王国の祈りであり、旧約聖書の中で神様が約束されたことを認識している祈りなのです。
解放の約束、救いの約束、贖罪(しょくざい)の約束、永遠の命の約束です。これは、服や家や車のための約束ではありません。彼はすでに、人間の親でも子どもに家、土地、お金、食べ物、服のような良いものを与えることは知っている、しかし、天の父がくださるのは、キリストであり、救いであり、王国です(マタイ福音書7:9-11)と言っています。
📖出エジプト記 20:11 口語訳
"11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。"
●仕事をしない安息日、神様が約束したことだけを覚えておく。それが安息日です。そして今日、聖書をよく読まない多くの人々が、特定の日を安息日と決めています。しかし、神様が安息日について彼らに語られたとき、神様は日についてではなく、「人」について語られ、人を象徴するために日を用いられたのです。イエス様が来られたとき、安息日が来ました。「私のもとに来なさい。休ませて(安息を)あげよう(マタイ福音書11:28)」と。キリストのもとに来た日、あなたは安息日に入ったのです。安息日はある日ではなく、一人のお方です。
●あなたの国が来ますように、あなたの御心(意志)が天で行われるように、地でも行われますように。そして、天のお父様は私たちに、今日、来たる王国のパンを、それは明らかに復活のいのちのパン=約束の成就(じょうじゅ)・キリストを与えてくださいます。そう、それはいまや来たのです。
そこで、次にそのパンが何をするのかを見てみましょう。マタイ福音書6:12、「そして、私たちの負債をお赦(ゆる) しください。」それはパンがすることです。 私たちが罪を犯した者を赦すように、私たちの罪をお赦しください? この言葉は、あなたが人を赦さなければ、神様はあなたを赦すことがないかのように聞こえます。そんなことはありえません。そこには翻訳の問題があるのです。
原文を見てみると、「あなたが赦すから、あなたのお示しになった模範から、私たちが人を赦すことができます」とあります。なぜなら、この祈りは、「あなたの御心(みこころ=ご意志)が、この地上の人々の間でも、ありのままに行われますように」というものだからです。ですから、私たちは天で見たものを地上で再現するために、それをコピーしているのです。 だから、天=父が赦すと、私たちは天から赦しを学び、地上の私たちも赦しを与えるのです。つまり、 この祈りが答えられたとき、私たちは天の父を反映し始めるのです。そうすれば、天の父の御心と同じように、地上の人間の間でも御心が成されるのです。 父親は従者ではありません。父親は模範です。ギリシャ語の父親という言葉は、パタという言葉です。パタとは、創始者、根源、原型のことで、愛の起源となる人という意味です。 父なる神様は愛の根源であり、始まりであり、赦しの根源であり、あなたに悪いことをした人を祝福する根源なのです。だから、あなたがたの天の父のように、完全で聖なる者となり、愛する者となりなさい、と言われたのです。では、息子と父、どちらが手本になるのでしょうか。父です。どこで天の父を模範にする? 復活の中です。なぜなら復活にあって、私たちは彼の子になるからです。
天の父は復活の中で何をするのでしょうか。赦してくださるのです。そして私たちは赦します。復活にあって天の父が赦してくださったので、私たちも赦すのです。私たちは父がするものをコピーし、それは祈りにおいてもそうで、 それを「主の祈り」と呼びます。それは何かというと、私たちが反映させるべき神様のご性質の啓示です。父は私たちが赦すことができるように赦してくださいます。父は私たちを悪から救い、誘惑に陥れないように導かれます。
●私は父に似ています。私は父を反映します。父は赦し、私も赦します。父は愛し、私も愛します。父は祝福し、私も祝福します。父は意地の悪い、思いやりの無い人たちのために祈る。私も私を利用しようとする人たちのために祈ります。 天の父なる神様は何をしたのでしょうか。私たちがまだ罪人であり敵であったときに、ひとり子のキリストを送り、キリストが私たちのために死んでくださったことで、私たちに対する愛を示してくださったのです。キリスト者はいまその天の父と、子キリストと、同じ霊を授かっています。同じ心を反映できるのです。
(2022年7月9日配付のトラクトより)