1: 新約と旧約: 前編(Ja)
今日は2022年2月19日のパワーシティ教会の礼拝メッセージを翻訳・要約しお伝えします。
この紙は前編です。
救いの学びはイエス・キリストの学びであり、救いの研究はキリスト教の中核であり、かつ人の命と人生の最重要の学習です。イエス様が私たちのためにしてくださったあがない・救いが何なのか、深く知る必要があります。
📖ヘブル人への手紙 2:2-3 口語訳
“2 というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、3 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、”
●ここで2つの要素があります。
その1:天使によって与えられたモーセの律法があります。その法では、すべての違反と不従順には、目には目を、歯には歯を、と言うように、正当な償いの報いを受けます。律法には赦しがなく、悪い行いにはそれを罰することになっています。
そしてその2:イエス様が与えてくださった大きな救いは、私たちを律法から逃れさせてくれるものです。これほど大きな救いをないがしろにして、どうして天使によって与えられた律法から逃れられるのでしょうか。
📖ヘブル人への手紙 8:6-8 口語訳
“6 ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、 さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。7 もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。8 ところが、神は彼らを責めて言われた、 「主は言われる、見よ、 わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。”
「ベター=より良い(上記では「さらにまさった」)」という言葉は、「イエス様の方に権威がある」とイエス様の権威を表しています。ですから、二つの契約のレベルを比較したのではなく、むしろ、ヘブル書の著者が手紙全体で一貫してそうしたように、キリストがなさったことを指して、その言葉を使い続けました。
ヘブル人への手紙には、「より良い、より良い」と何度となく書かれていますが、これはキリストがなさったこと、それが「欠け」があった初めの契約と違い、永続的、永遠であることを指しているのです。 この「ベター=より良い」という言葉は永遠を意味し、ヘブル書の中での「パーフェクト=完全」という言葉と同じ使われ方をしています。
また、ヘブル書の中で「ワンス=一度」という言葉を使って、イエス様の犠牲の永遠性を説明しています。イエス様の犠牲は「より良い」、つまり永遠であり、イエス様の犠牲は「一度」、つまりたった一度の犠牲で全て済む、一つの犠牲が永遠の影響を与える、ということを意味しています。 そしてこの、「完全」という言葉。この犠牲のもつ永遠の性質と、その犠牲を信じた者が受けたものについて述べているのです。
●永遠の契約、ヘブル書の著者はイエス様の血にある契約を記述するために、より良い、新しい、永遠、のような単語を使用しています。いっぽう神様が彼らの先祖たちと結んだ契約、すなわち、エジプトの地から連れ出すために彼らの手を取ったときに結んだ契約は、出エジプト記12章を指していることに注目してください。
出エジプト記12章にアブラハムは登場しますか?いいえ、アブラハムは、創世記25章8節で死んでいます。ですから、アブラハムはエジプトから約束の地に連れて行く契約に加わっていませんでした。
したがって、「初めの契約」とは、ヘブル書の著者はどのような契約を語っていたのでしょう。その契約を文脈から見てみましょう。
「もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、(上記ヘブル8章7節)」「ところが、神は彼らを責めて言われた、 (8章8節)」
その契約は誤りを探す、と表現されている(8節の「彼らを責めて言われた」は英語欽定訳では、「罵(ののし)りと共に彼らに誤りを見つけられて」とされています)ことを観察してください。
これは、その契約は人々の責めを探し、非を見つけ、その契約が人々を非難したことを示しています。
アブラハムのような人たちの弱さや間違い、罪深い行為を見ることができるのは、ここ旧約にあってだけだということをご存知ですか? モーセのような人々、ダビデのような人々、イザヤのような人々は旧約の中にいますが、新約聖書には彼らの間違った行いが記録されているのを見たことがないでしょう。
彼らの悪行はすべて旧約に記録されています。なぜか?なぜなら、古い契約は、過ち探しの契約だからです。なぜかと言うと、罪の赦しがないため、たった一つでも罪があってはならず、それは罪探しの契約なのです。
だからたとえばモーセは旧約を読むと、モーセが誰かを殺して、その人を砂の中に埋めたことがわかります。そして次の日、ある二人が争っているのを調停しようとすると、そのうちの一人がモーセを見て、「昨日、エジプト人を殺したように、私を殺したいのか」と言い、モーセは、自分の秘密だと思っていたことが知られていることに恐怖し、命からがら逃げ出しました。(出エジプト記2:11-15)
でも、新約聖書には、そういう記録はないのです。新約聖書を読むと、
「24 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 25 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 26キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 27 信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。」(ヘブル人への手紙 11:24-27)
決して新約聖書には、モーセが誰かを殺したからエジプトを去ったと記録していないのです。新約聖書はモーセの信仰を記録したのであって、罪を記録したのではありません。
だから、旧約聖書でイエス様を信じ、キリストを信仰していた人たちが、新約聖書の記述に現れたとき、彼らの過ちの記録はなく、「信仰によってモーセは」「信仰によってラハブは」「信仰によってサムソンは」...という記録しかなかったのです。
サムソンなどは、彼は自殺と殺人を同時に行いました。しかしそれでも新約聖書では、サムソンは信仰によって良い記述を得た先祖のひとりです。
なぜ新約聖書は欠け・過ちを記録せず、信仰を記録するのか? なぜなら信者の過ちはすべてキリスト・イエスの上に罰されたからです。
だから、あなたの過ちを記録することは、古い契約に基づく過ち探しの方式による二重入力になり、それは正しくないことです。そして、神様は違法性の神ではなく、正義の神です。その正義は、すべての人の過ちをキリストの上に罰し、その愛は、すべてのキリストを信じる人を、キリストの完全な賜物よって赦したのです。アーメン。
📖ヘブル人への手紙 8:8-9、12-13 口語訳
“8 ところが、神は彼らを責めて言われた、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい 契約を結ぶ日が来る。 9それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。
12 わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」。 13 神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。”
だから、新しい契約の到着が、初めの契約を引退させたのです。聖書は「古い」という言葉を使って、初めの契約はもう使われない、期限切れだ、と読み手に説明しました。そう、神様ははじめから、イエス様によるゆるしと救いのご計画をお持ちでした。では、なぜ先祖との間に契約=旧約が結ばれたのでしょうか。
📖ヘブル人への手紙 9:15-20、22-24、27-28 口語訳
15 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。 16 いったい、 遺言には、遺言者の死の証明が必要である。 17 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、 効力がない。 18 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。 19 すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、 20 そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。 22 こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
23 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。 24 ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、 手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。 27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。”
律法にあったことは、「天にあるもののひな形」「ほんとうのものの模型」を表していたのです。動物の犠牲の血、遺言の取り決め、罪の提示、戒め・・・その律法がひな形・模型として暗示する、真の犠牲と罪の赦しのいけにえが、イエス 様によって為され、その血と死が「新しい=永遠で完全な契約」を満たし、永遠を受け継いだのは私たちなのです。それがキリストの救いです。(後編につづく)
(2022年4月2日配付のトラクトより)