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「とりあえず」の用法 ー ゴイサギのようにたたずむ門番がおり

日曜日。朝の空気はたぶん、この冬2番目くらいの冷たさ。とはいえ、息はまだぜんぜん白くなくて。

それでも、ようやくの冬である。

雪が降ったらきっといいだろうなぁなどと考えながら、いつものように本を片手にカフェの窓越しに日比谷公園の木々を眺める。

ちょうど“はざま”というか、これといった本が手元になかったので、目についたサローヤンの『ワン デイ イン ニューヨーク』と服部真里子の歌集を本棚から抜いてきた。

サローヤンは、じつは学生のころ買ったきり手をつけていなかった文庫本。題名どおり、小説の舞台となっているのはマンハッタンだ。

いまのところニューヨークへは行ったことがないし、このまま行くこともなさそうだけれど、《セントラルパーク》にだけはずっと憧れのようなものがある。

とはいえ、ホールデン・コールフィールドが姿を消した家鴨のゆくえを気にかけ、ジャック・フィニィの『ふりだしに戻る』ではそこがタイムリープの装置となり、ウディ・アレンの『マンハッタン』では散歩の途中、突然の雨に見舞われるーーーそれがぼくの知る《セントラルパーク》のすべて。これでは実際に行かないほうがいいに決まっている。

ぼくが日比谷公園を好むのも、要はそんな《セントラルパーク》の印象を勝手に二重写しにしているせいなのだ。

ところで、はたして“本家”のセントラルパークがどうだか知らないが、日比谷公園をぶらぶら散策していると「いったい何故ここにこれが?」と疑問に思わずにいられないようなオブジェの数々と頻繁に出くわす。

紅葉とはにわ
ヤップ島の石の貨幣
かつての「京橋」の欄干

にょきっと唐突に一本だけ立っていると、どこかの村の奇祭に登場する御神体のようにみえなくもない。

南極の石

それはそうと、いくらなんでも置き方が雑すぎやしないか。もはや「南極の石」ということすら疑わしくなるようなテキトーさである。

ほかにも、

ルーン文字の石碑
ルーパロマーナ(ローマの牝狼)

こわいよ…… などなど。

ひとつひとつ由来を読んでゆくと、たとえばルーンの石碑は北極航路開設10周年の記念として、ヤップ島の石貨はかつて日本が統治していた時代の記念として、またルーパロマーナはローマ市から東京市へ友好の証としてそれぞれ寄贈されたものであることがわかる。

説明書きには、ヤップ島の石貨が贈られたのは大正14(1925)年1月とある。なんと100年近くそこにあるわけだ。


こんなふうに、ひとつひとつのオブジェにはそれぞれ東京の歴史を彩るストーリーが秘められている(と言えば言えなくもない)。もっと有難い気持ちで見るべきなのでは?とも多少は思ったりもする。

とはいえ、こうした贈り物がひとつ、またひとつと増えてゆくにつれ東京都の担当者はさぞかし頭を悩ましたのではないだろうかーーーおいおい、こんなんもらっちゃって一体どこに置きゃいいんだよ……

当然、思い当たる関係先には片っ端から打診しただろう。

しかしそのたび、「ああ、あれね。ウチはちょっと、ほら、ご承知のとおりスペースがなくて。申し訳ないっす」とかなんとか軒並み断られたのは想像に難くない。

そしてけっきょく、「とりあえず日比谷公園の方でよろしく」とかなんとか押し付けられてきたのである(断言)。

だいたい、こういうときの「とりあえず」が本当に「ちょっとの間」という意味で使われたためしは皆無である。だから、頼み事の頭につく「とりあえず」の用法には、よくよく注意しなければならない。

**

ところで、「武玉川(むたまがわ)」なるものを知ったのはコピーライター土屋耕一のアンソロジーでだった。そのなかに「土屋耕一の武玉川」という章があったのだ。

武玉川とは、古川柳の一種で秀逸な付句、つまり五七五あるいは七七の部分のみをセレクトしたものを言うらしい。背景には、「連歌」という風流な“遊び”があるのは言うまでもない。

ちなみに「武玉川」なる名称は、江戸時代に慶紀逸なる人物が編んだ『俳諧 武玉川』という書物に由来する。

これまで土屋耕一といえばなんといっても回文というイメージがあったのだが、まさか武玉川まで守備範囲だったとは。さすがことば遊びの達人である。

さらに興味をもって調べてみたところ、岩波新書のカタログに『武玉川・とくとく清水ー古川柳の世界ー』という本があることを知りさっそく読んでみた。著者は、あの田辺聖子である。

まず、田辺聖子の『武玉川・とくとく清水』(岩波新書)より江戸時代につくられた武玉川から気に入ったものを抜き出してみる。

猫の二階へ上がる晴天

桜を浴びる馬の横面

短いながら映像が目に浮かぶし、なにより長閑で平和な気分になる。

さまざまなひとが通つて日が暮れる

おどりが済んで人くさい風

たとえ前句の五七五がなくてもじゅうぶん通じる。

「人くさい風」って表現がとにかくすごい。むっとした熱気や汗の匂いまでが伝わってきそうだ。

畳んだ物の見えぬ独り身

逃げ込みもせず雨の侍

このあたりは「せつない」系。せつなさに身分は関係ないのだ。

先見た物の帰る引汐

江戸の堀割に浮かぶ塵芥が、潮の満ち引きで行き来するさまを詠んだものらしいが、自然をありのまま描写しているようにみえてじつは人生がギュッと凝縮されている。あえて前句がないぶん感情移入しやすいということもありそうだ。

***

いっぽう、土屋耕一のつくった武玉川はというとすべて七七の連作になっている。

たとえば、「東京ものがたり」という連作からいくつか。

常連がいる隅の静けさ

こまめに停まる下町のバス

救世軍は陽だまりに立つ

ほかにも、

胸まで浸かる梅雨の橋げた (「温泉へ行く」)

傘折りたたむ細かそうなひと (「恋とはどんなものかしら」)

花を見ている歳とった犬 (「春のうららの」)

といったあたりが好き。

そんななかに、まさに日比谷公園のオブジェにぴったりな武玉川をみつけてしまった。

置場に困るものを賜る

さすがはコピーライター界のパイオニアにしてレジェンド。さぞかし到来物も多かったのだろう。切実な問題だったにちがいない。

はたして土屋耕一氏には、「とりあえず」と押し付ける先はあったのだろうか? なんて、つい余計なことまで考えてしまうのだった。


公園の冬のひなたにゴイサギのようにたたずむ門番がおり

日比谷公園の門柱が好き

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