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曽祖父に会いに

よく晴れてはいるが風の冷たい午後、急に思い立って浜離宮に行ってきた。正式には《浜離宮恩賜公園》という。かつては徳川将軍家の別荘のようなものであったらしい。

浜離宮を訪れたのは十数年ぶりだったが、相変わらず整備の行き届いた日本庭園である。《潮入の池》は、その名の通り東京湾から海水を引き込んでつくられたもので、解説によるとボラやハゼも棲んでいるそうだ。

それはともかく、この日ぼくが浜離宮を訪ねた目的は、なにより曽祖父と会うためだった。
といっても、曽祖父がそこの管理人をしているというわけではないし、ましてや不法侵入して隠棲しているわけでもない。だいたい曽祖父は慶応元年の生まれで、とうの昔に亡くなっている。

じつは、この庭園の片隅に曽祖父がつくった銅像があるのだ。曽祖父は彫刻家だった。

その銅像は、明治天皇の銀婚式を記念して当時の陸軍省の発案によりつくられたもので、日本書紀や古事記にも登場する《可美真手命》がモデルとなっている。
可美真手命は神武天皇に仕えた軍神で、腕に抱えられた霊剣の存在がその功勲をいまに伝えている。

ちなみに、《可美真手命》はウマシマデノミコトと読む。
一度で読めるひとがいたらごほうびに「チェルシー」をあげたいところだ。ついでに3回噛まずに言えたら「5/8チップ」をつけてもいい。
とにかく、この銅像を見ようとぼくはひさびさに浜離宮まで足を運んだわけである。

わざわざ足を運んでまで見にゆく理由は、一つにこの「可美真手命像」が現存する曽祖父のほぼ唯一の銅像作品ということがある。

曽祖父はもちろんほかにも作品をつくったが、その大半は太平洋戦争末期、鉄砲の弾をこしらえるため供出させられてしまった。そのため、いまは画質の粗い写真を通して確認するほかない。

思うに、この「可美真手命像」が供出を免れたのは、それが「軍神」をモデルにしていたからだろう。母の話では、曽祖父はお国のために率先して自身の作品を差し出すようなひとだったというが、さすがに武力を司る神様を鍋や釜といっしょに溶鉱炉にぶち込むことに軍部の方が気が引けたのかもしれない。あるいは、それが明治天皇の銀婚式の記念に制作されたという背景もすくなからず影響していそうだ。いずれにせよ、子孫としてはラッキーと言わざるをえない。

もう一つ、この「可美真手命像」の顔がどこか曽祖父に似ているというのもこの銅像にぼくが親しみを抱いてしまう理由だ。そのため、浜離宮に行くときはなんとなく曽祖父と会いにゆくような気分になる。

もちろん、ぼくは曽祖父に会ったことはないが、この銅像を見るたび幼いころ叔父の家に飾られていた肖像画を思い出す。じっさい、ひさびさにこの銅像の写真を見た母の第一声も「おじいちゃんにそっくり」だった。それに、軍神というわりになんとなく華奢な姿も、小柄だったという曽祖父のイメージに重なる。さすがに自分をモデルにしたわけではないだろうが。

黒田清輝《佐野昭肖像》1899

ところで、曽祖父は昔のひとには珍しく長命で、昭和三十年まで元気に生きた。そのため、晩年は日本の洋画壇の黎明期を知る語り部としてのラジオのインタビューに応えたりもしていたらしい。音声が残っていれば聴いてみたいものである。

同居していた母によれば、明治期に生きた男らしく自宅での曽祖父は近寄りがたい雰囲気をもっていたそうだが、どうも仲間内での評判は違かったようだ。

たとえば、当時の仲間たちとの座談会など読むと芸談というよりはくだけたエピソードや、いや、それはあまり言わないほうがいいんじゃないですかといった裏話などを率先して披露している。要は、お調子者っぽい。

そのいっぽうで、例の「可美真手命像」についてはコンペでのあまり本人的には名誉とは言えないような裏話を暴露されたりしていてどうも「いじられ役」といった印象もある。

その後、曽祖父は宮内省内匠寮に所属し、当時建造中だった赤坂離宮(現在の迎賓館)や国会議事堂などの装飾デザインを手がけることになるのだが、そこにも曽祖父の素顔を窺い知るちょっとおもしろいエピソードがある。

いちど、自身も宮内省のOBで、数多くの内部資料をもとに当時の業績を調査しているという方が曽祖父の件で訪ねてこられたことがあった。

話を聞けば、曽祖父は当時内匠寮を取り仕切ってきた片山東熊からヘッドハンティングされるようなかたちで宮内省に入り、しかもちょっと例をみないような厚遇を受けていたのだという。じっさい、だいぶ羽振りがよかったようだという話は母からも聞いたことがある。

ところが、この方がどんなに資料を漁ってもその一連の経緯を裏付けるものが出てこないのだそうだ。「不思議なんですよ。ほんとうに不思議で」と繰り返しおっしゃっていたのを思い出す。片山東熊がじきじきに引っ張ってきて、しかも特別な待遇で雇用しているというのに役所にその書類が見当たらないというのだからそりゃそうだろう。

でも、そのときぼくはなんとなく曽祖父という人間についてわかった気がした。

よく「人たらし」などと言うが、曽祖父もまた出会ったひとを魅了するいわゆる愛されキャラの持ち主だったのではないだろうか。「あいつと一緒だと飽きないから声をかけよう」とか、あるいはもしかしたら「あいつは便利だから連れていこう」みたいなこともあったかもしれない。いずれにせよ、権力闘争なんてもってのほか、純粋に人間同士のつきあいを楽しんだひとだったのだろう。

もし曽祖父に会うことができたなら、ぼくはそんな家族には見せないもうひとつの顔をうまく探り当てることができる気がする。ひいおじいさん、ぼくはあなたの素顔を知っていますよ。

それにしても、すぐに会えるひとと会うのはいつも億劫でしかたないのに、もう会えないとわかっているひとには無性に会いたくてしかたない。いったいどうしたものか。曽祖父の血は、どうもぼくには受け継がれなかったようだ。

そんなことを考えながら浜離宮を後にした。

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