ベリーショートの後ろ姿
最初からお願いで申し訳無いんだけど、もし以下の本編を読んでみようかなと思われた方はぜひこの後にあるnoteを先に読んでいただきたい。
短くも長くもなく、感情が先走って決して読みやすいとは言えない文章だけれど、それだけに本編に出てくる人物のイメージがし易いかも知れない。
かえって分かりにくくなる可能性もあるけれど、プロローグとしてどうしてもこのnoteを枕に話を始めたかった。
年を取れば取るほどに、取り返しのつかない物事は嫌になるほど増えていくけど、これももう取り返しようもない人との物語であるから。
いわゆる。
飲み屋における「お母さん」と呼ばれる存在が苦手だった。
老舗の居酒屋さんや料理屋さんにいがちな、常連さんから「お母さん」と呼ばれる店の女将さん。
長い母子家庭で育まれた、過剰にして複雑な母子関係の歪みなんだかどうなんだか、僕は他人である居酒屋の女将さんを「お母さん」と呼ぶ事が出来なかった。
周りの言う「お母さん的存在」の意味も分からなかったし、酔っ払ったおじさんが「お母さんお母さん」と飲み屋で呼び掛ける姿が嫌いで、決してああはなるまいと心に決めていた。
要するに、それ程までに自意識がほとばしっていた「痛い」時期だと思って頂きたい。
書いてて恥ずかしいの何のという思いだけど、23から4のあの頃、そうやって僕は超個人的な「良い」と「ダメ」でガチガチに武装していた面倒な若僧だった。
ちなみに余談だけど、スナックやクラブの「ママ」は平気だった。そう親を呼んだことが無いからだろうが酔っ払った僕が「ママ~」と呼んでいたのだから自己矛盾も甚だしい。
とにかくまあ、そんな時に実にお母さん的な彼女に出会った。
まさかとは思うけど、プロローグをすっ飛ばした方のために簡単に説明すれば、「彼女」とは当時勤めていたバーの超常連のお客様で、とある会社の経営者であったことから通称「社長」と呼ばれていた。週に3日はいらっしゃる方で、ちょっと男勝りなベリーショートな髪形と性格の、でも気持ちの良い酒の飲み方をする人だった。
簡単に、とは言ったけど5行ちょっとの紹介で終わってしまうのは、僕が店で会う以外の「社長」を殆ど知らないからだ。
たまに街中で偶然お会いすることはあったけど、何を話したのかを殆ど覚えていない。多分他愛もない世間話をしてすぐに別れたんだと思う。
実は、バーテンダーと酒場のお客様との店の外での付き合いなんてそんなもので、そんなものでなくてはいけないとも思っていた。
踏み込みすぎず離れすぎず、接客業としてうちの店には、そんな誰も口に出しては教えない無言の矜持があった。
正確な社長の当時の年齢はわからない。
当たり前だけど、直接尋ねた事はなく話の流れにも出なかったと思う。
ただ、その時の僕の年からすれば「お母さん」と言うにはまだかなり若かったはずだ。
細かいことには拘らず、いつだって明るく笑った顔ばかりが思い出されて、想い出の細部はもう薄ぼんやりと霞んでしまっている。
そして時間が経てば経つほど、ショートカットの頭を振って、店を出ていく後ろ姿ばかりが鮮明になっていく。
年月が残酷なのか、僕が薄情なのか。
多分その両方で。
それでも、はっきりと覚えている「社長」の居る風景がある。
特に鮮明なのが数年前の、季節の頃ならちょうど今、梨が沢山出回る時期だ。
勤めていたバーを辞め、開いた店も3年余りで閉めてしまった僕は、自分にだけ大量の言い訳をして、ほとんど逃げるように故郷の街に居た。
熊本の地震や閉店のドタバタを理由に、店のお客様にきちんとしたご挨拶も出来ないまま、家族で経営する産直物産館の中でどうにか自分の居場所を見付けつつあった。
社長からの数年振りのメールは、そんな秋の昼過ぎに突然入ってきた。
「イベントの仕事で、君の地元に来ています。」
添付された明らかに見知った風景の写真には、そうとだけ短く言葉が付いていた。
慌ててネットで検索すると、社長の会社が関わってるイベントがひとつだけ見付かる。
それは僕の実家のすぐ近くの老健施設の秋祭りで、検索に手間取った為イベント開始の時間が迫っていた。
会わせる顔は無かったけれど、僕は反射的に走った。
ごめんなさいの後の言葉は、会えてから考えればいい。
無断で走らせた会社の軽トラが、会場の施設に滑り込むと、提灯を吊った広場の真ん中に社長は居た。
運営スタッフと何事か打ち合わせていた社長は、ふと僕に気付くと一瞬だけ驚いた顔をしてそれから可笑しそうにニヤリと笑った。
「なかなか似合っとるよ。」
不義理を叱られるとは思ってなかったけど、まさか一番に物産館のロゴの入ったポロシャツを誉められるとは思わなかった。
十数年着ていたコックコートを脱いだ自分を、僕はまだどこかで恥じていた。
そこを突かれた様な気がしたのは、多分思い過ごしじゃないのだろう。
何と返したら良いか分からず、ただ勢いだけでやって来た僕は「ご無沙汰してます。」とだけ言って頭を下げた。
パンプスと杖が見える場所まで歩いて来た社長は、下げたまま動けない僕の後頭部に向かって
「顔付きも変わっとらんみたいね。よかよか。」
と言ってとんとんと、肩を叩いてくれた。
「オーナーも言いよったよ。まずは生きていかなん。養わなん。それ以外の事は二の次でよかでしょ。だって。」
そして僕が抱えてる大量の梨を見て、
「手土産はきっちりしとるね。」
と言ってあっはっはと笑いながら、社長はもう一度僕の肩を、今度はぱんぱんと叩いた。
杖はその度に、少しずつ黄土色の地面に刺さった。
今年の初め。
プロローグにも書いた通り、社長は亡くなっていた。
後日それを知った僕は、唯一うちにあった社長の映る画像を引っ張り出してみた。
特に感傷的になってた訳じゃない。ただ、ぼんやりと霞みそうになっている記憶の中の社長が、話してる姿をもう一度見たいと思った。
僕自身の結婚式の三次会。
勤めていたバーを貸し切った宴会の最後の方の映像に社長は映っていた。
一番奥の、いつもは座らないカウンターに座って。
カメラマンに「新郎新婦にお祝いの何か言葉を」と言われた社長は、ガンガンに鳴るBGMの中、酔って赤く染まった頬ごとカメラにこれでもかと近付いてこう言っていた。
「黙ってたって人の集まる土曜の夜に、こんな老舗の繁盛店でスタッフが貸し切りとはまだまだだね。やるなら売り上げ考えて日曜か平日でしょうが。水商売の勉強がもちっと足らん。」
怒ってる風を装ってるのが丸分かりの社長はそれから、ふとカメラから視線を外す。
その当時は全然気付かなかったけど、今見ると分かる。
多分外した視線の先には、画面には映っていない僕が居たはずだ。
「がんばれがんばれ。」
カメラを見ないまま、社長はそう何度も言っていた。
「がんばれがんばれ。」
画像の中で社長は、BGMに声をかき消されながら、優しく笑っていた。
このお話はこれで終わる。
プロローグはあったのに、エピローグもなく終わる。
エピローグの意味が物語の結びであるなら、それは今も終わっていないから。
社長との後日談は、これを書いている今日も増え続けているから。
それでも強いて付け加えるなら、あと15年。
いや10年先だったら、お母さん的存在と前置きして「お母さん」と呼んでも、社長は怒らなかったかなと想像してみる。
いや、絶対怒るだろうな。
やっぱりそう思って、何だか笑ってしまう。