夜間保育のオムライス
実は、と言うほど意外でも無いとは思うけど、バーに同業者のバーテンダーは、お客としてあまり来ない。
営業時間が丸々被ってると言うのが多分一番大きな理由だと思うけど、カウンターに座るよその店のバーテンダーは見慣れないから、たまにそんなことがあると僕は過剰に緊張してしまう。
逆にあまりに接する機会が多くて、すっかり慣れっこになっているのがスナックやクラブやキャバクラ、古くさい言い方をあえてすれば「お水の女性たち」だ。
いわゆる同伴やアフター、仕事終わりの食事などで、店が終る午前二時過ぎからバーカウンターは彼女たちで埋まる。
個人的に僕は彼女たちを「よりお客様に近い接客業」で、だから同業者だと思っているけれど、話をしていると言葉の端々から彼女たちはバーテンダーをそんな風に思ってないと感じる事もある。
一度、近所のスナックのママに言われた言葉が僕の感じる違和感に一番近いような気がするんだけど、その五十代のママは「同業者」という言い方をした僕に
「バーテンダーは生き方でしょ。あたしのは生活だから。」
と言った。
ふたつの言葉の違いが僕にはわからなかったけれど、その時当たり前のように「なるほど」と知ったかぶりをした僕に、ママは特に何も言わなかったと思う。
二十代独身の僕の生活と言えば、店と六畳のアパートがその殆ど全てだったし、バーテンダーはまだ生き方ですらなかった。
「生活」と、彼女が言った意味がほんの少しだけわかったのは、それから随分経ってから。
僕にその「生活」の形は、不細工なオムライスに見えた。
********
開店直前の店のドアを開けたのがルミさんだと、僕は声を聞くまで全くわからなかった。
ジーンズに迷彩柄のパーカーを着て、大きめのトートバッグを肩から下げたルミさんは、まだ営業用の照明に落としていない明るい店内をぐるっと見渡すと「オーナーまだ?」と残念そうに言った。
この時点で僕はまだ、このほぼ不審者が誰だかわかってなかったんだけど、それを尋ねるより先にジーンズの足の後ろに隠れた小さな影に気が付いていた。
子供。男の子だ。
「新人君。仕方ないからあなたでいい。ちょっとお願いがあるんだけど。」
え、ルミさんですか。
と言ってしまったのは明らかに新人にありがちな僕のエラーで、一瞬で眉を中央に寄せたルミさんは「あんた、いま気付いたん」とさっきよりさらに低い声を出した。
うちのバーが地下に入るビルの四階。スナックと小料理屋の中間のような店に勤めるルミさんは、年齢は知らないけどもっと幼くて大人しい人だったような。
何度かお客さんと遅い時間に来た時も、カウンターの端に座ってにこにこと笑ってる姿しか見ていないから喋っている印象は殆ど無い。
にしたって、こんな感じではなかったと思う。
振り返って足元の男の子の前に屈んだルミさんは「いい、ここでちょっと待ってて。お迎え来るから」と男の子の頭に手を置いて言うと、僕の方に首だけを回した。
「オーナーには電話しとくから、二時間いや一時間半でいい。この子預かってくれない。髪セットに行って店の買い物する時間だけでいいから。ここ早い時間はお客あんまりいないでしょ。そこいらの隅っこに座らせててくれたらいいから。終わったらすぐ迎えに来るしその後は頼んであるの。いい?ちょっとだけ、宜しく。」
それだけ一気に言うと、ルミさんは肩のバッグを壁にぶつけながら振り返り、男の子にちいさく手を振りながら小走りに店を出ていった。
許可の順番は逆だし、そもそも僕はOKを出していない。
一瞬で取り残された男の子と僕は、しばらくそのままの場所に突っ立っていた。
BGMがその不思議な光景に似合わない音量で鳴っている。
男の子の顔に視線を落とす。
男の子はこっちを見ていない。
***
「何か飲む?」
エルビス・コステロのボリュームを下げながら聞いた僕の声は、我ながらかなりぎこちなかった。
多分五歳くらいだろうと当てずっぽうに思うけど、甥っ子すらいない僕にはよくわからない。
椅子の低いテーブル席に座らせた男の子は、名前を聞いても年を聞いてもただ黙って下を向いていた。
オーナーには三人、店長には一人子供がいる。チーフは独身だけど親戚に一人くらいちいさい子もいるだろう。
なんで僕なんだよと、この扱い方がわからないちいさい生き物を前に、僕は途方に暮れていた。
返事が無いとは言え、ポツンと座ったテーブルに何にもないのはさすがに寒々しい。
子供はジュースが好きに違いないと、僕は気持ち上ずった声を自覚しながら、また大き目の独り言を言ってみることにする。
「パインとクランベリーのジュースもあるけど瓶入りのお店で買ったやつで、うちで飲むなら生搾りのジュースがいいよ。果物を搾って作ったやつ。今あるのはオレンジとグレープフルーツ。グレープフルーツは搾ったまんまだけど、オレンジは半分パックのジュースで割るんだ。その方が酸味と甘味のバランスが安定するんだよ。ただ僕はオレンジが時々高いからだとひそかに思ってるんだけどね。」
完全に言わなくていいことまで喋ったのは、理由のよくわからない緊張感に焦っていたからだったけど、それでも全く無反応な男の子を見てたら何だかちょっと腹が立ってきた。
そりゃさ、知らない場所に置いてかれて知らない兄ちゃんに話しかけられて心細いのは分かるけど、こっちだって営業前で忙しいのに気を遣ってやってるじゃん。せめて頷くとか首を振るとかなんかしろよな。大体こっちは君らのせいで賄いだって食べ損なってるんだ。
あ。
賄いのオムライス、厨房に置きっぱなしだったんだ。
***
「オムライス、好き?」
男の子は頭をぴくんと揺らして、その日初めて僕の言葉に反応した。
別に返事はいらなかった。反応が気のせいならそれはそれでいい。
それよりも急に気になり出したのは、厨房のオムライス。
料理にまだ全然慣れていない僕が作ったそれは、包んだ玉子のあちこちに穴の空いた、それは無惨な見た目をしていた。
すこし冷めていたオムライスをレンジに入れて温める。
湯気を立てるようになっても、いやそうなったから余計に、穴だらけのオムライスはさらに不細工で滑稽にさえ見えた。
カウンターの内側からテーブルの男の子に目をやる。
最初にそこに座った姿勢のまま、男の子は膝の上の握り拳を固くしている。
冷蔵庫から出したケチャップで、一番大きな真ん中の穴を隠す。
それからケチャップで無理矢理に穴を繋いで、アンパンマンの様な顔を描いた。
とても不満そうな眉の、何か言いたそうに口を歪めたアンパンマンごと、僕はオムライスを男の子の目の前に置いた。
ふふふ、っと。
思わず笑ってしまったように見える顔を視界の端に確かに見ながら、僕はカウンターの内側に逃げてシェイカーを取り上げた。
何か自信のあることを、男の子に見せたかったのかも知れない。
大きめのシェイカーに、玉子を全卵入れバースプーンでかき混ぜる。
砂糖をティースプーンで三杯、ちょっと考えてもう一杯。
牛乳とバニラエッセンスと、アレンジでバナナシロップを少しだけ。
ストレーナーを被せ空気を抜き、トップを乗せて目だけで男の子を見た。
オムライスをひとくち分乗せたスプーンを空中に止めたまま、名前も知らない子供は僕の方を見ている。
囁くような音量で流れるエルビス・コステロの歌声に乗せて、今までの不手際を全て振り払って僕はシェイカーを持ち上げた。
「ミルク・シェイク」
ノンアルコールのこれでも立派なカクテルは、あんまり知られていないから、男の子はテーブルに置かれたグラスと僕を交互に見た。
僕を見上げる視線の先に、半分残されたオムライスが見えた。
「お腹いっぱい?」
はっとしたように、男の子はまた俯いてしまった。
折角話ができそうな、一番いいタイミングで余計な事を言ってしまったような気がして、僕はグラスをテーブルにそっと置く。
「たべてないから。」
と、下を向いたまま男の子が言ったような気がした。
「ママも、よるごはんたべてないから。」
ああ、そうか。
半分背中を向けかけた体のまま止まって、僕はそう思った。
思ったら、訳も分からず瞼が熱くなる。
「ラップしとくから大丈夫。ママにも半分あげような。」
厨房に戻りながら出た声は、ぐずぐずに鼻声で。
間違いなく、その日一番カッコ悪かったはずだ。