シンデレラ・リバティ
駅舎が建て変わってしまったので今はもうないけれど、私がまだ20代の頃、通勤の駅にある連絡橋には「シンデレラ・ブリッジ」という名前がついていた。
建物自体が無くなってしまった今はもう仕方がないけど、あの当時だって全然名前は認知されてなくて、私だってまたこの階段を駆け上がるのかとうんざり見上げた先に、たまたま汚れて煤けた看板を見付けたから知っていただけで。
ホームへと続く灰色の橋の昇り口。そのちょうど梁の所に、ちょっと可愛らしいファンシーな書体で「シンデレラ・ブリッジ」とピンク色で書かれていた。
と言うことを。
当時から今まで何人もの人に言ってきたかわからないんだけど、誰ひとりとして全くもって知らないし、レベルの低い嘘だと言われたりもするし、面と向かってそうは言わない人だって内心はそんな風に思ってるに違いないし。
だって「シンデレラ・ブリッジ」だ。
人から聞いた話なら私だって笑っちゃうかも知れない。
だから私は、この話の最後に必ずこう言う事になる。
「11時30分発下りの最終は5番ホーム。登って走って下って2分。何度もピンクの文字を見てから私はシンデレラって思いながら駆け上がってた。絶対に間違いない。」
そう。
あの頃私は、薄暗い深夜の駅をスニーカーを履いて猛然とつっ走るシンデレラだった。
笑ってもいいけど、本当の話。
*******
高卒で社会人になってもう4年も経つのに、我が家では私はまだ大人とは認定されていない。
夜の外出は週に3回まで、門限は5度に及んだ延長交渉の末になんとか12時。
外泊は怖くて口に出した事がない。
職場のある市内からは在来線で20分。だから11時半の最終だと門限にはギリギリ間に合わないんだけど、5分くらいの遅刻なら玄関先で父にひとしきり怒られればそれはそれで済んだ。
ただその電車を逃すと、もう帰る手段が無い。
「なるほど。だから11時がラストオーダーなんですね。」
腕組みをしたオーナーはチラリと時計を見て言った。
午後10時半。
店には来たばっかりだけど、駅までの時間を考えたら私がお酒を飲めるのはあと1時間もない。
トイレに行ったまま帰ってこない圭一が「ちょっと真面目な」と言っていた話のタイムリミットも同じく。
「前回とおんなじお酒にしましょうか。」
トイレの中に聞こえるはずはないけど、オーナーはわざとちょっと小声で言う。
「はい。あのめっちゃ苦いやつで。」
と、悪戯するように私も小声になるのには当然理由がある。
圭一が工場の先輩たちに教えて貰ったというこのバーは、繁華街の少し外れの地下にある。
初めて圭一に誘われた日、それはまあ私達が付き合いだした日でもあるんだけど、降りていくほどに真っ暗になる階段は、その手のお店に行ったことの無かった私をとても緊張させた、でも前を歩く圭一はもっと心細かったに違いない。
水色の作業ズボンを履いた細い足は、階段の滑り止めを一段降りる度にカチャカチャと震えながら踏んでいた。
ええカッコしいの、小心者。
高校までずっと一緒だった私達は、性格まで似た者同士だ。
バーカウンターに並んで座る誰が見たって明らかにビギナーの二人を、バーのオーナーは見知らぬ客の様には扱わなかった。
分厚いメニューを持ったまま固まる圭一には、飲みやすい鶏のラベルのスコッチを炭酸割りで。
生意気にも「甘いのは好きじゃない」と言った私には、ボンベイなんとかと言う綺麗な水色のボトルのお酒を炭酸とトニックで割り、ライムを入れてくれた。
「プレススタイルと言うんです。新聞のプレス。記者さん達に控えめな甘さが流行ったみたいで。」
実は最初からこのお店が気に入ってたんだけど、そのお酒をひとくち飲んで完全にファンになってしまった。
これこれ。
私が求めていたのは、こう言う大人な感じなんだ。
と言うわけで、2人では何回目かだけど私はひとりで3回ここに来ている。
その度にオーナーや他のスタッフが見たこともないお酒を教えてくれるものだから、帰りはいっつもギリギリで「シンデレラ・ブリッジ」を駆け上がる事になるのだ。
「ひとりで来てるの、彼氏にはやっぱり内緒にしてるんですか。」
カクテルを作りながら、オーナーが相変わらず小声で聞いた。
フェルネッタ・ブランカ。
ボトル越しだと真っ黒に見えるリキュールは、グラスに注いで炭酸で割ると緑色になる。
バースプーンで混ぜる直前までの、透明から深緑までのグラデーションがとても涼やかで綺麗で、あとめちゃめちゃ苦い。
差し出されたグラスに口を付け、その苦味に一瞬眉を寄せて、それからゆっくりと鼻に抜けていく香りが、こないだからすっかり癖になっていた。
「はい。もし門限を破ったら真っ先に疑われるのは自分だと思ってるんです。まあ、そうなんですけど。彼、私以上に門限とうちの父を恐れているので。」
圭一は真面目だ。
別に誉めてる訳じゃない。
幼馴染みと言っていい私達は、たぶんいつかは恋人になるんだろうなとお互いが思いつつ、思いつつのまま貴重な学生時代を通過した。
となると次はここじゃないかと思っていた成人式の夜は、飲み慣れないお酒に揃って流されて気付いたら朝になってた。
就職で住んでる場所は離れたけど、全然会ってなかった訳じゃない。
なのに、それからたっぷり2年。
待ちに待った告白のセリフが「そろそろ付き合ってもいいと思うんだ」だった事はもう許そう。
ただ、恋人同士の肩書が付いただけで相変わらずの毎日はさすがに焦れったいと言うか何と言うか。
真面目だと言ったのはそう言う訳で。
「シンデレラ・リバティって言うんだって。」
やっと戻ってきた圭一に、トイレの間オーナーから聞いた話をしてみる。
戻ってきたら何だかやたらと緊張して、自分からは全然話さない。
焦れったいと言ったばかりだけど、だからと言って急展開も困るんだ。
真面目な小心者は、私も同じだから。
「自衛隊だか米軍だかで休日に基地に戻らないといけない時間が12時。それがシンデレラみたいだからシンデレラの自由って意味だって。となるとやっぱり私はシンデレラみたいね。」
ね、と。
ひとりで喋る私に、うんうんと明らかにおざなりな相槌をうつ。
こいつ、聞いてないな。
圭一は店の時計を見上げて、いつもの炭酸割りを半分以上一気に飲んだ。
そして、グラスをカウンターにつけずにもう一度残りを飲み干した。
11時を、5分過ぎている。
店の前からタクシーを捕まえれば、駅には10分で着く。
余裕を持って終電の5分前に着けば、シンデレラ・ブリッジをドレスの裾をたくしあげて走らないで済む。
なら、残り時間はあと10分。
「ドレスは冗談だから。だって着てないし。あははは。」
黙ったままの圭一から流れ出るただならぬ緊張感で、自分の頭の中のシュミレーションと現実がごっちゃになる。
ドレスのくだりは、口に出してしてなかったような。
ゆっくりと2周。
壁の時計の秒針は止まった様な時間の中で、自分だけ当たり前にくるくると回った。
いつの間にか耳まで真っ赤になってた圭一は、付き合いだした日と同じ顔で前を見ている。
いいってば。告白のセリフはもう許してあげるって言ったじゃないって違う。
どうしよう。なにか言うんだ。今から。
頭のなかでは鼠の従者が大声を上げてカボチャの馬車を叩いてる。
急げ、シンデレラ。
でも、時計をもう見れない。
「主任になった、んだ。」
は。
「給料も上がる、一万円だけど。」
で。
「だから今日泊まっていかないかなって。ウチに。」
え。
えええええ。
主任と一万円とお泊りと。
因果関係は全く不明ながら、何とも言えない説得力があるような。
私はと言えば驚きすぎて意外すぎて、心象風景をそのまま言えば、鼠の従者はラッパを吹いてるけど、カボチャの馬車はなんでか真っ二つに割れている。
取りあえず、どうしよう。
残っていたフェルネッタ・ブランカを一気に飲んで「だって門限のお父さんが」とだけ私はやっと言った。
圭一は握っていたグラスを口に運んで、そのまま真上を向いた。
うん。それずっと空だよ。
やっと私の方を見た圭一は、残っていた氷を前歯に当てて痛そうに口を押さえている。
その指の隙間から言葉が漏れた。
「トイレでお父さんに電話した。絶対に駄目だって言ってた。」
やっぱり。
いやいやそれより電話しちゃダメじゃんそんなとこまで真面目じゃなくっていいのに何やってんのモロバレじゃんお父さん怒ってるだろうなああ困ったなどうしようどうしよう、と言うのは一旦置いといて。
「どうするの。」
私の中の勇気を、全部かき集めて言ってみる。
うん。と言ったっきり圭一はまた前を向いて黙っている。
横顔に何だかやりきった感が出てるのが腹立たしい。
カウンターの奥にいるオーナーと目があった。
「大丈夫?」なのか「良かったね」なのか。
どちらか分からない表情をしてるから、ちょっと迷って「大丈夫です」と顔で返しておいた。
大丈夫、ではない。
当分の夜間外出禁止は当然。門限は多分10時。いや9時かも。
そうなると、あの橋を駆け上がることはもうなくなるだろう。
それはちょっと寂しいなって思ってるのが、自分でも意外だった。
12時を過ぎてしまったシンデレラは、魔法が解け、元のボロを着た娘に戻る。
でもそれは、時間の制約が無くなったという事でもあるんだ。
橋を駆け上がらなかった先にある、12時を過ぎた後の世界。
それがちょっと怖いような、たまらなく嬉しいような。
もうすぐ、12時になる。
私は背中で、ゆっくりと進む時間を聞いていた。