宮本君の一万円
熊本駅を背にして、真正面にあるのが白川橋。
この大きな橋は、朝の時間通学の学生で溢れかえる。
二十数年前のあの頃。
別に決まりは無いと思うし、あってたまるかとも思うのだが、不思議と高校生は左側、予備校生は右側にきっちりと別れて渡っていた。
ただ単に学校がそれぞれの方向にあるというだけなんだけど、たまにうっかり反対側にいると「ヤバい」と焦って車道を走って渡る位には、やや厳し目な色分けがされていたように思う。
主に、自虐的な卑屈さを一枚上着に被せた予備校生側にとっては。
数ヵ月前まで橋の右側を渡っている時は、そもそも平行して予備校生の群れが居るなんて知らなかった。
僕は駅から高校までを一緒に向かう友人との話に夢中で、橋の反対側なんて全く見てもいなかったのだろう。
気のせいでなければやや俯きがちな、その見ていなかった右側の列の中に、その年四月の僕はいた。
「絶対とまでは言わないけど、まあほぼ大丈夫じゃないかと思う。」
くらいの。
自信の持ちようが微妙な判定の大学に、二次試験を待たずしてきっぱりフラれた僕は、お手本の様な正規ルートでやさぐれていた。
大手予備校ではなく地元の小さな所を選んだ理由は「高三と同じ事をやるんだからどこだっていっしょだろそんなもん」という至ってシンプルなものだったけど、突然煙草を吸うようになったのは「同じ事をしてたってダメだ、自分を変えなきゃ」と言う無軌道ぶりで、要するに全てがどうでもよくなっていた。
午前中だけ予備校に行き、昼御飯を口実に外出すると、目当ての映画の時間までを近くの川沿いにあったボロボロのベンチで文庫本を読んで過ごした。
ちょっと誇らしげに持ち歩くようになった三ミリの軽い煙草を、引っ切り無しに吹かしながら。
宮本君は初めから馴れ馴れしかった。
僕だけの聖地と決めたベンチに、ある日突然やってきて自己紹介も無しに話し掛けてきたのが初対面だ。
「ここよかな。雑草の背の高かけん、道から見えん。タバコ吸うにはよか場所やっか。よう見つけたな自分。」
僕は礼儀のなってないこの手合いが大嫌いだったから、宮本君を完全に無視した。
なにが「自分」だ、お前は誰だ。
「駅にゲーセンのあるやろ。予備校の後そこでバイトしとっとけど、昼に抜けたら仕事まで空くったいね。おいもここで時間潰してよかね。」
よかねも何も、勝手に隣に座ってる宮本君は胸ポケットからはみ出しているセブンスターを取り出すと、駅前にあるパチンコ屋のロゴの入ったライターで火をつけた。
僕はベンチに置きっぱなしだった、初心者丸出しの三ミリグラムの煙草を、そっとポケットに隠した。
「自分もそこん予備校やろ。おいもたい。煙草見つかったら退学て馬鹿らしかて思わんや?予備校生は社会人でん学生でんなかやろ。縛らるっとは納得いかんたいね。」
いやいや学生だし、その前に違法だし。
「あーバイト行きたくなかー。ゲーセンにさコインゲームのビンゴのあると知っとる?あそこにさ、暗ーか顔した予備校生の何人もずーっと溜まっとるったいね。換金もでけんゲームの何の楽しかつやろか。暇なら居酒屋どん行けばええったい。」
はい。その暗ーか顔して電車の時間まで溜まっとる一人は、多分僕です。
「居酒屋て言えばたい。駅前に昼から開いとるとこんあっとたい。もつ煮込みの旨か店の。よか、わかった。今五千円持っとる。バイト代の出たけんね。よか場所ば教えてもろたけん奢るばい。」
唇の端に燃え尽きそうなセブンスターを咥えたままの笑う宮本君は、僕なんかより遥かに大人に見えた。
「おいは宮本。自分、名前は?」
かくして僕は、ほとんど一言も喋らないまま駅前の居酒屋に引っ張り込まれた。
なるほど確かにもつ煮が抜群に旨い居酒屋のカウンターで、宮本君は聞いてないことまでべらべらと勝手に喋った。
驚いたのは県内トップクラスの進学校出身だったことで、ならば何故大学に落ちたのかと聞いたら「落ちた訳じゃなか。最初からそのつもりだったけん」だそうだ。
ほとんど一人で喋る宮本君に相槌だけを打ちながら、僕らはきっちりと五千円を飲んだ。
「おいは将来間違いなく出世するけん五千円は遠慮せんちゃよか。大体自分は学生やろもん。」
いやいやお前も学生だろとは思ったけど、宮本君なら何となくそうなっても不思議じゃない様な気がして、僕はおとなしくご馳走になった。
「また飲もばい。」
セブンスターを咥えたまま、もう完全に閉まっているゲーセン方面にぶらぶら歩きだした宮本君の背中を送ってすぐに、僕は三ミリグラムの煙草を捨て、駅の自販機にあるなかで一番重たいハイライトを買った。
薄暗い駅の裏で一本目を思いっきり吸い込んだ直後、僕は二千五百円分を全部吐いた。
夏が来ただの秋めいただの、やれ講習の壮行会だの模試の順位が上がったの下がったのと、僕と宮本君はとにかく全てにかこつけて、駅前の居酒屋に向かった。
一方的に宮本君が喋り、僕がたまに皮肉のような合いの手を入れる。
「ようそがん一瞬で返しの思い付くね。自分はサービス業に向いとる。」
いや、教師になろうと思う。
親にも言ってない進路希望を、僕は宮本君に話した。
そいはよか、と何度も何度も言う宮本君につられて笑った場面は、今でも色付きで思い出せる。
冬を前に状況を決定的に変えたのは、僕の母の「二浪は絶対無理」と言う全く持って反論の余地の無い宣言だったけれど、それが無かったとしても宮本君との時間はゆっくり終わっていったと思う。
秋口から下がり始めた僕の成績は、現役からふたつランクを落とした志望校からも笑いかけては貰えず、対してバイトに明け暮れているはずの宮本君は予備校に貼り出された成績上位ランキングにちらほら名前が載ったりしていた。
たまに河原のベンチで会うと、
「大学はどこでんよかろもん。譲っちゃならんとは学部やろ。自分なら教育学部に入りさえすればどこだって良か先生になるったい。」
と何度も繰り返す宮本君を、僕は次第に疎ましく感じだしていた。
ハイライトを日に一箱も吸うようになっていた十二月。
僕は河原のベンチに行くのをやめた。
宮本君と再会したのは、僕がすったもんだの挙句バーテンダーになっていた、あれから九年後の夏の夜だ。
スーツ姿の団体予約の中に、宮本君はいた。
「宮本ばってん、わかるね。」
テーブル席の宴会から一人カウンターに移ってきた宮本君は、一緒に持ってきたビールジョッキの横に煙草を投げ出すと、どかどかと懐かしい雑な動きで椅子を引いた。
お久し振りですと言う僕に「なんやそんしゃべり方は」と笑うと、宮本君はまったくあの頃と同じように自分勝手に喋りだした。
僕はずっと、ただ黙って昔と同じ様にその声を聞いていた。
「久しぶりなのに悪かばってん、自分にはどうしても言いたかったこつんあると。センター試験の終わったらあん居酒屋で打ち上げするて約束したろもん。ずーっと待っとったとばい、あん日。忘れとったっだろ。」
いや、覚えてた。
試験の翌日、散々な自己採点の結果を見た僕は店の前まで行きガラス戸の向こうに宮本君を見た。
笑いながら店の大将と話す宮本君の隣には、予約札のようにセブンスターとライターが置いてあった。
「謝らんばいかんても、思いよったったい。」
宮本君はジョッキの取っ手を握ったまま、急に真面目な顔をする。
「いらん事ばおいが教えんなら自分もともと成績は良かったんだけんね。したら国立に受かったって聞いてかったい、良かったーて安心したったい。おい?おいは、あかんやった。センターで失敗してから福岡のようわからん専門学校に行ったばってん、そこも辞めてしもて。」
なんだよ。そんなの知らないよ。
「してから福岡で屋台ば引いとったとけど、そんまま料理人にもなりきらんでたい。」
なんでそんな事になるんだよ。笑いながら言うなよ。
「で、今ん会社に拾って貰ったったい。ガラス細工ば作る会社で職人しよると。だけんスーツの似合わんど。」
宮本君はネクタイを引っこ抜いてポケットに入れ、「成人式ん時に作ったスーツばい」と可笑しそうに言った。
あんな、宮本君。
謝らんといかんとは、おいの方たい。
ごめんやったね。
成績ん下がったつは自業自得で宮本君のせいじゃなか。
そやんこつはわかっとっても、あん時は何かのせいにしたかったんやろね。情けなか。
ホントにごめん。
おいが男らしゅうなかった。
ごめん。
頭の中で繰り返す、口には出ない言葉を断ち切る様に、宮本君がカウンターを叩いた。
「よか、わかった。昔は昔でよかたい。しかし自分がバーテンダーになっとるとは思わんかったばい。なんちゅうトリッキーな経歴か。よし、また会えたけん今日はおいが奢る。なんでん好きな酒ば飲まんね。」
トリッキーは、お前の方だろ。
多分泣き笑いになっている僕の目の前に、宮本君はカウンターから手を離して、下に挟んでいた一万円札をヒラヒラと摘まんで振った。
「な、出世したろ。」
ぼやけて滲む一万円札の向こうに、僕は見慣れたあの頃とおんなじ、宮本君の笑顔を見た。