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ジントニックをレモンで


通勤の朝は暗い方がいい。


真っ暗な中に、電力不足の不夜城のように立つ駅に向かう「こんな暗い朝から僕なんとお仕事に行くんですよ。」感が何となくいい。

と言うと、相当にワーカホリック気味だけどそればかりではない。


飲食店時代。


朝の五時六時は「普通の生活」とクロスして逆行する時間だった。

夏場の朝はもう明るい時間だから、その澄んだ空気の中で部活の朝練に向かう高校生の群れとすれ違う。彼等は一様に眠そうにはしていても、その内側に押し留められない若さを、全身から残像のようにたなびかせている。

その自転車が向かう先の、手付かずなまま始まった朝を遠目に見ながら、いがらっぽいだけで旨くも何ともない何十本目かのタバコを咥えて歩く帰り道は、惨めでも悲しくもなかったけれど、ただ嵌まらないピースを無理に押し込んだような、微かな違和感があった。


今見える景色は少し違う。


まだ暗い駅のホームで見かける高校生は、僕が年をとった分だけさらに若さを無差別に撒き散らして見えるけど、彼らの住むまっさらな朝に僕も向かっている。


それが僕にとって、はたして良い変化なのかはわからない。


多分ずっとわからない。


押し込んで歪んだ一片のピースは、それが嵌まるはずだった場所にも、もう合わないのかもしれない。



「でも年を取るってのは、結局そがんもんなんじゃなかとかね。」


戸田さんの口調を真似てみる。


「なんが正しいとか普通とか常識とか、誰が決めとっと。誰にもホントのホントは分からんとじゃなかと。分からんまま年取って、分からんまま死んでいくったい。」


戸田さんの言うことは、一見深そうで、その実そうでもないから、答えの出ない世の中の大半の事を述べる時に非常に便利だ。


そして、本当の戸田さんならこの後必ずこう言うだろう。

いつも通りにえらい不機嫌に。


「そやんとどがんでんよかけん、ジントニックお代わり。レモンだけんね。」






新人のバーテンダーはスタンダードのカクテルを一通り覚えたら、いや、覚えながら同時にやらないといけない作業がある。

それは常連のお客様の好みを把握する事で、これがとても難関で。

例えばソルティドッグというグラスの縁に塩を付けたカクテルで、本来はぐるっと一周つける塩をほんの一ヶ所だけという方。

または、スコッチウイスキーのチェイサーを氷なしの炭酸水でお出しする方。

あるいは生ビールの泡を一切乗せてはいけない方だとか。

常連さんの数だけある、些細だけど本人にとっては大切なこだわりを記憶することは、サービスに含まれる礼儀だったように思う。


戸田さんの場合はレモンだった。


普通はライムを使うジントニックを、レモンで作る理由を戸田さんに聞いたことはなかった。

チーフも店長も知らなかったし、オーナーは聞いたかもしれないけど忘れたと言っていた。

ただ、そのレモンの入ったジントニックしか飲まない戸田さんは、僕が作る時にだけ

「よかか、レモンだけん。」

と、毎回念を押した。

その日に五杯飲もうが十杯飲もうが、オーダーの度に僕にだけ

「レモンだけんね。」

と、繰り返した。


半年、一年。もっと。


僕だったり、僕以外だったりがその間も戸田さんにレモン入りのジントニックを作り続けたけど、どれだけ時間がたっても僕にだけ戸田さんは当て付けのように言い続けた。


「レモンばい。間違うなよ。」





元々が、決して愛想の良いとは言えない戸田さんを僕はどんどん苦手になり、よく現れる木曜日なんかは店に入る前から憂鬱になったりした。


「そりゃお前が苦手だからだよ。」


態度にこそ出してないつもりだったけど、毎日隣に居るチーフバーテンダーの先輩にはさすがにバレていたらしい。
多分そうじゃないかとは思っていたけど、そんな風に明け透けに言われればやっぱり気分は落ち込む。


黙り込んでしまった悔しさと、ぶつけ所の分からない不満を我慢できない僕は、珍しくチーフに言い返した。


「だって別に僕は戸田さんに何にもしてませんよ。」


グラスを拭いながらチラリと僕を見たチーフは「だからだよ」と、いかにも面倒くさそうに言う。


「何にもしてないからだ。あとさっきの苦手は戸田さんが、じゃない。お前が戸田さんを苦手だからだ。言ったろ。接客は合せ鏡みたいなもんだって。」


いつ次のお客様がドアを開けるかわからない時間のカウンターの内側での話は小声の早口で、その時間が終わる瞬間はいつも急にやって来る。

囁き声の話し合いは大体唐突にぶち切られて、続きがあることは稀だ。

僕はチーフの話の先を、肩から上に力を入れて静かな時間を細切れにしながら待った。


「お前が睨むから戸田さんも睨む。うちの常連さんはみんな比較的優しい。まして八年ぶりの新人だ、ゆっくり育てようって思ってくれてる。わかるか。お前が顔を見て嬉しいお客様とそうじゃないお客様が居ることが既におかしい。おかしい意味が分からなかったらもう辞めた方がいい。言いたいことはもう分かるな、大体自分から戸田さんに話し掛けた事ないだろ。オーダー以外で。」


あ、それは多分、無い。


「相手を区別してるのはお前だ。わざわざ金を払って店に来てくれるお客様じゃなくて、ほとんど見習いのお前が区別して態度を分けてるんだ。いいか、新人。それは少なくともうちの店では接客とは言わない。アマチュアなままでも人が居ないから店では使うけど、いつまでも新人なんて呼んでくれねえぞ誰も。」




次の次の木曜日、戸田さんはやっぱり店に来た。

その前の木曜日は、午前三時のクローズまで店のドアが開く度にバースプーンを持つ指が固まった。

だから逆に、その日は今日は間違いないって開き直れたのかも知れない。


朝から具合は悪かったんだけど。


戸田さんはチーフと話しながらレモン入りのジントニックを飲んでいる。
スツールに斜に腰掛けて、左手の指にプラスチックの吸い口を付けたわかばを挟んで。

カウンターの反対側から、店長をリレーしてマティーニのオーダーが入る。

この面倒で繊細なカクテルは、普段なら当たり前にチーフにお任せするけど今日だけは助かる。


作ります。今日は僕に作らせて下さい。


「マティーニより先にやることあるだろ。今日を逃すと次はもっと辛いぞ、お前。」


ミキシンググラスを奪って後ろを通りながら、チーフは僕の背中を小突いた。


戸田さんの前は空いている。


天気の話、仕事の話、別になんだっていい。
あ、選挙と野球の話はするなってどっかで聞いたけど、どうせどっちもよく分からない。
夜から雨で寒くなるって誰かが言ってた、もうそれでいい。
大体、戸田さんが何が好きかなんて、僕は全然知らない。


「なんでいつもジントニックにレモンなんですか。」


焦ってはいたけど、テンパった訳ではないと思う。


戸田さんの事、ジントニックのレモン以外何にも知らないって気付いたら僕はそう聞いていた。


いかにも不機嫌そうに、わかばの火を灰皿で捻って消すと、プラスチックの吸い口だけをカウンターに置く。


それから戸田さんは、ひとくち分だけ残ったグラスを一度振ってそのまま飲み干した。


「別にライムでもレモンでもなんでもいいとよ。何か入ってりゃサクランボだってよか。お前らバーテンダーにとったら腹が立つかも知れんけど、何ば飲むかなんて酔っぱらいにとっちゃ大したこっちゃなか。二杯目から先は味もちゃんとはわからんしな。」


戸田さんは空になったグラスに口をつけて、底に残った水を吸った。


「結局、大事なんはどこで飲むか、誰と飲むかたい。他人は知らんけど、オレはそやん思うたいね。」


癪だけど、チーフの言う通り区別をしてたのは僕だったのだろう。

ぶっきらぼうに恥ずかしそうに。

そんな戸田さんを、僕はその時初めて見た。

何十杯というジントニックに、ただレモンを落とす僕を、この人は一体どんな目で見ていたのだろうか。


「誰と、飲むかの、「誰」にはお前らバーテンダーも入っとると。しっかり仕事せんば新人。そいでな、わざわざ言いたくは無かばってん、さっきからグラス空いとっとやけどな。」


すいません、と慌てる僕に「ジントニック」とだけ言うと、戸田さんはわかばを一本取り出してゆっくりとカウンターに置いてあった吸い口を付けた。



グラスを掴んで置き、レモンにペティナイフの刃を当てた僕が「あ」と気付いて思わず振り返ると


「せからしか、早よせ。レモンば入れろよレモンば。」


と、戸田さんはわざわざ横を向いて怒鳴った。







朝のホームの高校生は友達と待ち合わせてたのだろう、僕には見えない暗がりに手を上げている。


あの頃僕が感じていた違和感は、夜の仕事をどこか蔑んだ劣等感の様なものだった。

自分から飛び込んでおきながら、そこから抜け出せなくなる事への矛盾した焦りでもあった。

そして、それらと反対の何かを、勝手に朝の高校生の中に見ていたに過ぎない。


今はそれがわかる。


その事をカウンター越しに戸田さんが教えてくれたんだなんて、まさか僕は思ってはいない。


あの人はただ、ぐじぐじと情けない僕に苛立っていただけだ。


そう思うことにしている。


いやいや、そんなまさか。ねえ。


「ごちゃごちゃと相変わらずお前は鬱陶しかね。わかったならもうよかたい。いらん事ば考えとらんで黙って働け。動いてたら自然と分かってくる事も世の中には多かと。」



そうでもなさそうで、何だか深いような。


いかにも戸田さんが言いそうなことを考えていたら、ホームのベルが鳴った。


まっさらな朝に向かう、今日の電車が来るのだろう。

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gm
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