前略、橋の上から。
店の脇にある、古い石橋からいつものように川を眺める。
地下のレストランバーのチーフから、郊外の支店の店長になってもう7年がたった。
カクテルのオーダーは減ったけれど、その分料理をする機会は年々増え、3年目に料理長が退職してからは、厨房のメインは僕だった。
イタリアンをメインに据えた、洋食全般。
自分がバーテンダーなのかシェフなのか、考えるのを諦めた頃、ふいに独立の話が立ち上がる。
飲食の世界は、店長になったらそれ以上の役職はない。
あとは店が増えるか独立するか、基本的にはその2択だ。
結婚もし、子供もいたから独立開業のタイミングとしては微妙だけれど、逆にここを逃すと次のチャンスはいつ来るのかわからない。
来ないかも知れない。
僕は飲食店の独立開業と言うのは「出来る人」と「出来ない人」がいるのではないと思っている。
独立を「する人」と「しない人」がいるだけだ。
可能だろうが不可能だろうが、「する」人は「する」し、「しない」人は何年経っても全然「しない」
僕の「する」タイミングはここだろうかと、少しだけ悩んではいた。
「で、2人目が出来ましたとか言う話じゃないんだろ。」
オーナーの自宅マンション近くの居酒屋。
8時に待ち合わせ、僕は7時に来たのに赤提灯のカウンターにオーナーはすでにいた。
「生ビールで良いよな?焼鳥は適当に頼んどいた。あとなんか欲しいなら好きに自分で頼め。」
失礼します、と隣の席につく。
長く勤めた店を辞める話と言うのは、こうも切り出しにくいものか。
大学は勝手に退学し、就職と言うものをこの店でしか経験してない僕には、正しい手順と言うものがわからない。
ただ、今日言わないと多分もう言えない。それだけはわかる。
顔馴染みの。
居酒屋の大将と世間話をするオーナーの後ろを通って、ビールのジョッキがふたつ届く。
「もう飲んでるけどな。」
おつかれさん、とジョッキを軽く合わせた後、ふいに
「ひとりでやった方がいいぞ、店。」
と、オーナーが言った。
「えっ。」
「もう技術はあるんだ、後はお前の顔でどれだけお客さんを呼べるかだけど、それももう問題ないだろ。ただ大箱にしてスタッフが多いと、勿論良いこともあるけどお客さんの目が散る。最初はお前だけを見せた方が良い、大変だけどな。」
豚バラと鶏皮と砂肝が届く。
「6坪か8坪くらいでカウンターメインのレストランバー。まあバルかバールみたいな感じでも良い。ただ食事は必ず出せよ、折角作った腕が勿体ない。」
ささみ明太とささみ山葵が届いて、俺は山葵だけどいいかとオーナーが聞いた。
「物件の事は○○さんに聞くと良い。内装は○○、酒屋はうちと同じで良いだろ。」
ぼんじりがタレで届く。ぼんじりは塩が良かったなとぼんやり思った僕を見透かすように、
「ここでだけは、ぼんじりタレなんだよな、俺。」
と言い、そこで初めてこちらを向いて笑った。
「珍しいですね二人揃ってなんて、初めてじゃないですか?」
一通り焼き物の終わった若手の職人が、汗を拭きながら前に来た。
「お祝いお祝い。今度こいつが独立するんだよ。1年後に。」
は?
「エースにいきなり抜けられたらうちも困るし、1年間じっくり開業の告知してから満を持してグランドオープン、って話の作戦会議なんだよ。」
「な?」
びっくりしすぎて、呆れて感心して。
最後笑ってしまった。
大将!店長、独立するってよー!
職人が大声を上げ、ジョッキが集まって。
おめでとうと頑張れよが雨のように降ってきた。
店長を勤める店は、いや、店長を勤めていた店は、明治8年に作られた古い石橋の脇にある。
何度も通ったこの橋を渡るのも、最後になるのかも知れない。
きっちりと1年後の今日。
僕は店を上がった。
数日後にオープンの決まったレストランバーは、6坪でカウンターメインで僕以外にスタッフはいない。
おまけに1年かけたプロモーションのお陰で宣伝はばっちりだ。
橋の上から、明かりの消えた店を見る。
感慨も、もちろんあるけれど、かなわないなあと思ったら頭が下がった。
街灯の下。しばらくそのままで居て、自転車を押して帰る。
1度も振り返らなかった。
オープンの日。
オーナーから「お祝い」と書かれたウイスキーが、ケースで届いた。
花を贈らないのが、あの人らしいと思った。