2杯目の生ビール
「百萬石に行きませんか。」
まことが急にバカみたいな発言をするのにはさすがに慣れたけど、五年も支店で一緒に働いてまだそれかよと思えば溜め息もでる。
先日は年末で週末のラッシュ時、二人で使うには広すぎる厨房を走り回りながら「まこと、冷蔵庫に半端なサイズの大根あったろ。半端大根!」と聞いたら
「えっ?半導体ですか?冷蔵庫に?」
と返された。
その五分後にはその半導体じゃない半端な大根を急いですりおろせ、との指示に
「使っていいですか。フードプロフェッサー。」
とも言っていた。
もし、驚いてるとしたらまだ甘い。
そんな事にいちいち反応してたら、こっちの身が持たない。
僕はフライパンをオーブンから引っ張り出しながら「使うなら教授に宜しく伝えといてくれ。」と我ながらささやかなウイットを含んで返す。
しかし頭を冷蔵庫に突っ込んだままのまことのお返事は
「ワケわからない事言わないで下さい。忙しいんだから。」
と、手厳しい。
とは言え、支店に来て五年がたった。
熊本市の繁華街のど真ん中。
銀杏通りにある本店レストランバー。
そこから二人して郊外の支店にやってきた僕らは、色々とすったもんだの挙げ句、オーナーを加えた基本三人体制でその時働いていた。
僕が支店の店長、唯一の後輩スタッフが件のプロフェッサーまことだ。
他の職業はよく知らないが、飲食店は今も昔も慢性的な人手不足な上に定着率がかなり悪い。
理由はいろいろだけど、結局はその拘束時間の長さと、詰まる所肉体労働な部分の過酷さにあると僕は思っている。
要するに、長くてキツイ。そりゃ人は来ない。
なので、半導体だろうがプロフェッサーだろうが土用の丑の日を土曜日だといまだに思っている三十歳だろうが、辞めない休まないと言う一点だけでまことは貴重な人材だった。
本人には絶対に言いたくは無いが。
本店の営業時間は午後六時から翌午前三時。
支店は午前十一時半から午後二時までのランチ営業の後、午後五時半から十一時までのディナー及びバータイム。
時間の長さはほとんど変わらないが、支店は客席が本店の倍あった。
広いフロアと厨房を全速で早歩きしながら、大量の仕込みとレストランオーダーをとにかく作り続ける。
スタッフの中から比較的若手な僕らが支店に選ばれた理由は、多分そこにある。
求められるものは沢山あったけど、優先順位の上位は瞬発力と手数と、そして何より体力だった。
それはオーセンティックバーの顔も持つ本店で必要なのとは、少し違う要素だ。
「別に来なくても良いって言われてるんでしょ。カウントダウン。飲み行きましょうよ。せっかくの大晦日なんだし。忘年会もしてないし。」
十二月三十一日、大晦日。
この日は毎年全スタッフが本店に集まり、元日朝までのカウントダウンパーティーをやるのが恒例だった。
初年度のまことがシャンパンをこぼして漏電させ、真っ暗闇の中年を越したのも、もう五年前の話だ。
数年が経ち、年に一度のお祭り感も薄れ始めた今年、初めて僕は本店のチーフに来なくても良いと言われていた。
こっちで全然回せるし、たまには休んだ方がいいと。
「休め」
と言わなかったのは、多分チーフの気遣いだと思う。
そう言われたら従うしかないから。
五年前まで、僕は本店のチーフバーテンダーだった。カウンターの真ん中に立ち、100本以上酒瓶が並んだ棚を背にウイスキーを注ぎ、シェーカーを振るのが何より誇らしかった。
支店の店長は確かに栄転に違いない。
ただあのカウンターの中で頭の上から降ってくる照明の光を、僕はずっと忘れられずにいる。
そしてその場所には、今は違う人間が立っているんだ。
「来なくて良いとは言われてない。来るか来ないかは任せるって言われただけだ。」
シャッターをすべて下ろした支店の店内で、カウンターだけつけた薄暗い照明の下に僕らは並んで座っていた。
「それ来ないで良いって意味じゃないっすか。今日大掃除だったんだからもういいでしょ。ほら、覚えてないですか、百萬石。銀座通りの狭い居酒屋。何度か行ったじゃないっすか。」
覚えてる。
両隣の店の壁にトタン屋根を渡しただけの様な、かなり良い風に言えば「細長い海の家」のような店だ。
暖簾にはラーメンの文字があったけど、僕は食べたことが無い。
屋根の隙間から覗けば空が見え、すきま風が時折吹き抜けるような安い造りの店舗。
ネオン管の光が目に痛いような繁華街の谷間に、無理やりねじ込んだような店の雰囲気が、どうにも僕は好きだった。
「勝手に一人で行け。チーフには自転車壊れたから途中に置いてきたって言っといてやる。」
別に飲みに行っても良い。
年越しの前後にピークを迎える今日は、早い時間に行ってもやる事はほとんど無いだろう。
準備も、仕込みも、店長とチーフで完璧に仕上げてあるに違いない。
僕はただ、ふて腐れているだけだと気付く。
ふて腐れた上で、意地になってるに過ぎない。
必要とされているかも分からない場所に、わざわざ自分をねじ込んで数時間だけ安心したいだけなんだ。
そして、それはカウンターに並んだお客様には全く関係の無い感情でしかない。
ただ、行かないという選択肢は無かった。
それは、とても惨めなような気がしてどうしても許せなかった。
今の状況と、何より自分自身を。
普段から開いてるか開いてないか不明な店構えだったが、周りの店の灯りが消えているなか、百萬石は消し忘れの様な赤提灯をぼんやりとつけていた。
「ほらほら開いてた。すいませーん。二人ですけど席あいてますかー。」
他に客がいない店内を見た上で、まことがわざわざ言う。
この場合相当な嫌味なのでヒヤリとするが、店の奥から出てきた店主のおばちゃんは気にする風でもなく「どこでも。生二つ?」と後半をだいぶ端折った接客をした。
寒い。
外の気温から、風の分だけややマシですという店内には一つだけストーブが置かれている。
上にはやかんがのっているが、湯気はもう出ていない。
コートの前を引っ張りあわせて、僕は壁際のカウンターに腰掛けた。椅子は座った途端に不安げに揺れた。
まことは、オートマチックに運ばれてきた泡の消えた生ビールのジョッキを握り「ここ一口餃子が旨いんですよね」と言いながら勝手に飲み始めている。
「飲んだらすぐ行くぞ。」
そう言った時、ふいに僕は気付かなくても良いことに気付いてしまう。
昨日までの賑わいが嘘のように静まり返る通りで、需要があるのか無いのか分からないこの店は、それでも破れた灯りをつけて僕らの他には誰もいない店を開けている。
なるほどそれは、今の僕に良く似てる気がした。
ジョッキを握った手に力が入らない気がして、僕は顔を近づけて少しだけビールを飲んだ。
「あー。あー。辛気臭い。今から独り言っす。返事しなくていいっす。違っても違うとか言わないで下さい、ウザいから。」
まことが何かを言い出した。僕は面倒でまことを無視したまま、またビールをひとくち分だけ飲む。
「自分は馬鹿っす。いや、自分では思ってないけど馬鹿って思われてるのはわかります。そう言う目で時々見るから。溜め息つかれるから。でも、馬鹿でも五年も一緒に働いてるから分かるんです。あんたがどういう気持ちでカウントダウンに行くのかが分かるんです。分かってないって言いたいんでしょ。お前に分かるわけがないって顔してますもん。いい。いい喋らなくていい。ウザい。」
あけかけた口を閉じて、僕は並びに座ったまことを見た。
まことはまっすぐに、目の前のベニヤ板の壁に怒鳴っていた。
まことの声で、剥がれかかったオススメメニューの紙が揺れている。
「それ、プライドすか。むかし本店のバーテンダーだったプライドすか。じゃ今俺らがやってる支店の仕事って何なんすか。あんた言ったっしょ、仕事に誠実にとか何とか。あれ嘘っすか。本店とか支店とかそれ関係あるんすか。あんたにそんな顔されたら、俺今の仕事好きになれないっす。せっかく好きなのに、好きになれないっす。」
僕はまたひとくちだけビールを飲む。
まことは残りを一気に飲み干して、ひどく下品なゲップをした。
「いいっす。何も言わなくていいっす。俺ら支店のチームだと思ってますから。支店チームで本店乗り込んでやるって勝手に思ってますから。違うんすか。俺だけっすか。何とか言ったらどうっすか。」
どっちだよ馬鹿。
「あのな。」
何かを言ったら良いのか。言わない方が良いのか。
どっちか分からないまま僕は口を開いた。
分からないままでいいかと思った。
「なんすか。」
ほとんど喧嘩腰にまことが言う。
「いや、いい。生ビールもう一杯だけ飲むか。」
返事もせずに「すいませーん。生ふたつともつ煮くださーい。」とまことが店の奥に叫んだ。
「もつ煮は余計だ時間がない」と、
僕はまことに言わなかった。
店のおばちゃんは、返事をしない。
放って置かれたまま、僕らの新しい年はもうすぐそこまできている。
2杯目のビールも、やっぱり泡なしで届いて欲しいと思った。