暖かい氷
氷には、冷たい氷と暖かい氷がある。
と言ったら、信じてもらえるだろうか。
締まった氷と、緩んだ氷と言ってもいい。
他の店は知らないが、僕がバーテンダーをしていた本店は、入り口前に毎日氷が届けられていた。
溶けにくいように新聞紙に包まれたそれは、一旦表面を洗って汚れと油を落とし、もう一度凍らせてから、早くて翌日使う。
よっぽど忙しく氷が足りなくなった時には、当日届けられた物も使うが、まずめったにない。
使いにくくて、美味しくないからだ。
洗った時に温度の上がった氷は、半日冷凍庫に入れといたくらいじゃ、冷えない。
毎日氷を触ってれば分かるようになるんだけど、はっきりと手のひらで判別できるくらい、温度が違う。
そして、温かく緩んだ氷は、綺麗に切れない。
支店が休みの月曜日、僕はひとりで本店のカウンターにいた。
オーナーは買い物にでも行ってるのか、店内には金髪の店長しかいない。さっきから僕の話を聞いてるのかいないのか、たまに相槌を打ちながら、ずっと氷を切っている。
僕らは氷を「切る」と言う。「割る」と言っても良いんだけど、本当に冷たく締まった氷はある一点にアイスピックが当たると、元から切れてたかのように抵抗なく2つに分かれる。だからその状態を目指し、バーテンダーは氷を「切る」と言う。
店長は下を向いてアイスピックを振りながら、かなりの確率で氷を「切って」いく。
その度に響く高くて硬質な音は、この仕事を始めて僕が最初に好きになった音だ。
切り終えた氷を入れ替え、新しい塊を取り出す。うちはどちらかと言えばカジュアルなバーだからこうやって割った氷をストックするが、本格的なオーセンティックバーだと、オーダーが入ってから切り出すところも多い。
そのくらい氷には気を遣う。
「ちょっと、聞いてます?店長。」
一瞬顔を上げた店長は、あからさまにうんざりとした顔で僕を見た。
「何が?」
「だからさっきから言ってるでしょ。支店カクテルのオーダーないんすよ。カクテルどころかウイスキーだってない。3割ジュース、1割ビール、残りの6割お冷ですよ、お冷。僕毎晩何十杯もお冷注いでるんですよ。そんなのバーテンダーの仕事ですか。僕要りますか。必要ないでしょ。」
郊外にある支店には広い駐車場があり、お客様の大半は家族連れでアルコールのオーダーは極端に少なかった。
営業時間を勝手に延ばし、「バータイム」なるモノを無理やり作ってみたりもしたが、本店の常連がたまに覗く位で、単に睡眠時間が減っただけだったのでやめた。
メインカウンターのストックを切り終えた店長は、奥の冷凍庫に次の氷を取りに行く。その背中を追っかけて、僕は愚痴を続けた。
支店の店長兼メインバーテンダーになって半年。僕の仕事は、ホールでのご案内と片付け伝票整理。最後にシェーカーを振ったのはいつだろう。
後輩のいる支店では言えない愚痴が、泥でも吐くように口から出続ける。
「ドリンクメニューなんて誰も見やしない。『おーい生2つー』は良い方ですよ、良い方。フードのオーダー取ったあと『水来てないけど』ですよ。うちは定食屋でもファミレスでもないっつーの。」
奥にある冷蔵庫の閉まりが悪かったのか、店長が持ってきた次の氷は、表面がわずかに濡れ透き通って見えた。
こういう氷は何回ピックを当てても綺麗には切れない。氷のくずが溜まっていくだけだ。
数回ピックを振った店長は、やっぱりなと諦めて氷を置き僕を見た。
「で?」
で?じゃないっすよ、と言おうとする僕を店長が遮る。
カウンターのダウンライトが、金髪の頭を照らしてる。
「そのお冷はお前が勝手に持っていくんじゃないだろ?頼まれもせずに。」
一旦は置いた暖かい氷をもう一度持って、アイスピックを振る。
氷は、やっぱり切れない。
ぐずぐずと破片が周囲に散り、無駄になって溶けていく。
「ならそのお冷は、オーダーだろ。」
店長の目がすっと細くなった。
「お客様が注文されたオーダーだ。オーダーにカクテルもお冷も関係ない。頼まれたものを、作って、出す。バーテンダーの仕事じゃないのか、それは。」
店長は、ずっと暖かい氷にピックを振り続けてる。
塊の4分の1がもう使えない氷片になって、排水溝へと流れていく。
「やっぱ無理だな。締まってないと綺麗に切れない。無駄になるだけだ。締めなおさないと使えない。また明日だな。」
買い物袋を提げたオーナーが帰ってきた。
何だよ店長揃い踏みで、何の悪企みだ。クーデターはよせよ。
笑いながら奥の冷蔵庫に、オーナーが向かう。
使えない氷のくずの、いくぶんかマシな一欠片をトングで拾い、店長はすっかりぬるくなった僕のウイスキーに入れた。
「愚痴を言うなとは言わん。ただ、やることやってからにしろ。お前はまだ、仕事を舐めている。」
返事も出来ずに、残りのウイスキーを飲む。
ぬるい酒に浮いた暖かい氷が、「お前はオレだ」と僕を責めた。