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やぶれかぶれ
「なあ。あのおばちゃんさっきからこっちずっと見てるぞ。ヤバいんじゃねえの。」
うつ向き加減で浩介は隣に座った僕に小声でいうが、そもそも奥行きが二メートルちょっとしかない店だ、目の前のおばちゃんには多分聞こえてる。
大体「悪いことしてませんよ」という卑屈な態度がいけない。
十八才になりたての僕と二月が誕生月でひとつ年下の浩介が、昼過ぎから焼き鳥屋で生ビールをオーダーしたんだ、そんなの悪いことに決まってる。
ここはむしろ「悪いことをしてます。わかってます。」という潔さが大事なのではないか。
そしてもし、咎められた場合には「やはりそうですか、失礼しました。」と爽やかに立ち去ればいい。
「あ、串は後でまとめて頼みます。ビールを先にお願いします。」
ニコニコ、ハキハキ。
どこからどう見たって大学生には見えない僕に、おばちゃんは眉をひそめたまま一度鼻を鳴らすと、怒ったようにジョッキを二つカウンターに置いた。
どすんと雑に。
「な?」
僕は誇らしげに浩介に言う。
浩介はおばちゃんの方を見ないようにしながら、その割りには素早くジョッキを握った。
もちろん今じゃない。もう三十年近く昔の話だ。
当時の繁華街には小さな映画館が四つか五つかあり、狭いアーケードの天井にはその時かかっている映画のタイトルが横断幕にデカデカと書かれていた。
僕らは隔週で始まった週休二日を良いことに、月に二回の土曜日に田舎の町から都会に出てきて、手当たり次第に映画を見ていた。
そしてその日、僕は実は一度だけヤンチャな先輩に連れてこられた焼き鳥屋に常連の様な顔をして浩介を引っ張り込んだ。
映画館の並びに立つ店は「やぶれかぶれ」と言った。
これ以上細くは出来ない建物は、ちょうどポッキーの箱を横倒しにしたような見た目で、暖簾の無いガラスのサッシが道路側にずらりとはまっている。
歩行者から丸見えのカウンター席は十二、三もあったろうか。
座席のすぐ後ろがサッシの出入口なので、店の一番左奥にあるトイレに行くには一旦店から出なければならないくらい狭かった。
「ぶ、豚バラと皮を下さい。」
浩介のやっと捻り出した勇気を、おばちゃんは顔にかかった煙草の煙の様に、ちょっと眉をしかめただけで無視した。
実はこれを待っていた。
「違う違う。」
浩介の顔の前で、これ見よがしに手のひらを振る。そうかそうかそりゃ知らないよな初めてだもんなごめんごめん、を頬に浮かべて。
まあ、僕も二回目なんだけど。
カウンターの天井から下がった、細長い紙の束から一枚を引きちぎる。
それから串立ての隣に数本置いてある短い鉛筆を添えて浩介に渡した。
「これに書いて注文すんの。」
へえと分かりやすく感心した浩介は、明らかに飲み慣れてないビールをひとくち舐めると、焼き鳥の注文を紙に書き出した。
僕と浩介は中学まで同じ学校に通った幼馴染みだ。
同じ部活をし、同じ深夜ラジオを聴き、それぞれに好きな子はいたが、告白なんかマダガスカルと同じくらい遠くにあるような青春も、同じように過ごした。
ちなみに今調べたが日本とマダガスカルは11354キロ離れていて直線距離で飛んでも12時間36分もかかるそうだ。
ならば告白はマダガスカルより遥かに遠い。
当時の僕らは、12時間ぽっちでは好きな子の目の前に立つことすら不可能だ。
そんな訳で僕らは青春のマダガスカルを諦めて、高校に進学をする。
僕はどちらかと言えば勉強が得意で、浩介は「ほぼ猿」という運動神経を誇っていた。
都会にある進学校と地元の工業高校。
よくある話、この展開だとお互いの環境に慣れるにつけ徐々に疎遠になり、成人式で再会。次に会うのは誰かの結婚式という流れだが、僕と浩介は進学から二年以上が経ってもずるずると付き合いが続いていた。
「ほぼ猿」と呼ばれながら、実は芸術や美容に興味があった浩介は、ついぞ武骨な工業高校の空気に馴染めず、僕は高校で初めて出会った都会の風景にも微妙に違う方言にも地元には居なかった女子達にも、ただ無闇に心の中で当たり散らしていた。
要するに、ビビってた。
思春期によくある言い訳をかなぐり捨てれば、僕らがつるんでいた理由は多分それだ。
「親父がな、もう決めてた。」
両手でジョッキの一番下を握り、浩介は焼き台に回ったおばちゃんがさっきまで居た辺りを睨んでいた。
多分、この話になると思ってた。
と言うより、こんな非日常な場所じゃないと浩介は何にも言わなかったと思ったから、この店に無理やり連れてきた。
色々ちゃんと考えてるんだ、僕だって、それなりに。
「卒業したら親父の知り合いの工場にそのまま就職だってよ。うんもすんもねえよ。こないだいきなり言われてよ、決めたからって言われてこっちの都合なんか知ったこっちゃないんだと。」
二口しか飲んでないビールで浩介は真っ赤になっている。こうなるともうただの「猿」だ。
高校三年生の僕らは、夏を前にそれから先の人生の選択を迫られていた。
それは、たかだか十七、八年の時間で決めてしまうにはあまりにも重く、なのに周りが当たり前のように決め始めている決断でもある。
夢を語ることはマダガスカルの青春と同じくらい恥ずかしく、そんなのは知らん顔するのがカッコいいんだと、男同士のルールだと思っていた。
「だから二年だ。二年生勤めたら後は好きにして良いって約束させた。親父の事だから二年もあれば工場の仕事にも慣れてしがらみも出来てって思ってるんだろうけどな。」
浩介はそんな僕らのルールを急に破ろうとしている。
いいや。
急、ではないのだろう。思えばこのタイミングを浩介はずっと待っていたのかも知れない。
やめてくれ。
僕はジョッキを手が白くなるまで握り込んだ。
「でも、俺は美容師になるんだ。」
そこだけ小声で浩介は言って、きっぱりと僕を裏切った。
お待ちどうさま。
とは言わず、おばちゃんは焼き鳥を盛り合わせた皿を四つもカウンターにガチャガチャと置いた。
うんもすんもない。
僕らは十センチくらい会釈しておばちゃんをやり過ごす。
やぶれかぶれは焼き鳥屋なのに小さな換気扇が二つか三つあるだけなので、焼き鳥を焼いた煙がすぐに店に充満する。
ただ、一人客が多く回転が早いから、しょっちゅう後ろのサッシが開き煙が流れ出ていく。
その匂いに引き寄せられるのだろうか、またポロシャツを着てセカンドバッグを持った正体不明なおじさんが入ってきた。
「いらっしゃい。」
ぶっきらぼうな言い方で、その日僕らは初めておばちゃんの声を聴いた。
なんでだろう。それが無闇に悔しくて、僕と浩介はずっと減らなかったビールを流し込んだ。
泡の消えた黄色い酒は、すっかりぬるくなっていた。
「で、お前は。」
浩介は浩介で、この店に入った時からそう聞こうと決めていたんだろう。
僕は、ぐらぐらと揺れ続ける気持ちの底を悟られないように慌てて喋った。
カウンターの下で足は震えていたような気がする。
「俺は進学に決まってるだろ。大学行って普通に就職するんだよ。」
そうだよ悪いかよ。
親に抗ってでも叶えたい夢なんか、僕にはない。
「バーテンダーとか料理人は、どうすんだ。やめんのか。」
これだから酔っ払いは困る。
軽々しくそんなこと言うんじゃねえよ。
「あのなあ、浩介。うちはもう10年近く母子家庭なんだ。言うなればプロの母子家庭だ。長男は手堅く国公立に進学、職種を選んでる場合じゃないの。取り敢えず母親孝行が最優先。お前にはわかんないかも知れないけど。大体何年かかるんだよ、料理人で食えるようになんのに。バーテンダー?飲み屋なんか最初から論外だな。」
そうだよ。それが正しい。
焼き鳥は全然減らない。
食べかけの豚バラは、皿の上で白く脂が固まりだしている。
「わかんないだろ、そんなの。」
僕に言ったのか、自分に言ってるのか、浩介はこっちを見ない。
本当は、浩介の方が正しい。
勉強が得意な僕には、今や真っ赤な猿にしか見えない浩介より、そんなことはよく分かってる。
浩介の親父さんが美容師になるのを絶対に許すわけがないのも。
二人ともジョッキは空になっている。
「おわかり、頼まないならおあいそするかい。」
いつの間にかまた目の前に立っていたおばちゃんは、一メートルも離れていない距離から僕らを見下ろしている。
「最近は子供が大人の真似した顔をして入ってくるから迷惑だよ。何かあったら文句言われるのはこっちなんだからね。」
まともに見上げられず、僕らは黙って空のジョッキを見ていた。
「ま、ガキの方が年寄りよりかいくらか見映えがいいか。」
カウンターのどっかから「うるせー。お互い様だ。」と声がした。
押さえた笑い声が、ざわざわと立ち上がって消える。
「ぐじぐじ悩めるだけありがたいと思いな。すねかじりが贅沢なんだよ。で、どうすんだい青年。」
僕と浩介はお互いを見て、その情けない顔に思わず吹き出した。
そして、その勢いのままジョッキを揃って突き出す。
「お前が店出したら、手伝ってもいい。」
前を見たまま浩介が言う。
「うるせえ。やらねーよ。お前は黙ってパーマでも巻いてろ。」
おばちゃんは、不機嫌な顔を隠さず僕らの前に新しいジョッキを二つ置いた。
どすんと、相変わらず雑に。
「いただきます。」
僕らは揃って青臭い声をあげる。
ふん、と。おばちゃんはまた鼻を鳴らした。
幼さがバレるのを恥じて、まだ乾杯すらまともに出来なかったあの日。
最後の夏は、もう目の前まで来ていた。
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