川沿いを歩いて帰る今日は
歩いて通勤に使っていた、白川沿いの道はいつだって僕に優しい。
そう思ってるのは、どうやら僕だけらしく、たまにすれ違う歩行者の顔が、皆明るいわけじゃない。
当たり前だけど。
熊本駅に程近い自宅から、遅くても夕方4時には店へと向かう。
産業道路を渡って、そのまま川の方へ。
夏でも冬でも、この川に沿って作られた緑の多い遊歩道には、さらさらとした心地良い風が吹き、なのに歩く人は少ない。
始めは自転車で通勤してたけど、いつしかここを歩いて行くのが好きになった。
売り上げが良い月もそうじゃなくても、川に沿って歩いていると、またいちから始まるような気がしていた。
それは、ある意味僕の願いだったのだろう。
市街地を貫く一級河川には、何本もの大きな橋が架かる。
そのどれを渡っても、結局は街中にたどり着くし、タイムラグもそんなにはない。
だから、日替わりで橋を選ぶ。
手前を渡れば古い職人町に出る。
かつて店長をしていた店があった場所に近い。
そして、それはもう今は無い。
真ん中を渡れば、新市街と言う(と言っても相当に古いが)アーケードと、下通と呼ばれる繁華街いちの通りがぶつかる場所に渡れる。
ここにはシャワー通りと言う、アパレルに特化した短い店舗の連なりがあり、名前の由来は屋根が無いから雨に降られると言う意味らしい。
風情があるのか無いのかは、判断の分かれるところだろう。
一番先の橋を渡れば、飲食街に直で着いてしまうから、個人的にはこのルートは若干味気ない。
店を明け渡す、今日みたいな日なら尚更に。
真ん中の橋を渡りながら、川面を見下ろす。
3年前の2月、同じ流れを見ていた時と、川は何にも変わってないように見える。
川は変わらないが、僕は変わったのだろうか。
「この盛り場で、例えば今月100件飲食店がオープンしたとするだろ。1年後に残ってるのは20件、2年後はその半分くらいだな。」
閉店の挨拶に行ったビルのオーナーは、そう僕に言い、缶コーヒーをくれた。
「だから、丸3年もった兄ちゃんは上等だよ。」
どうやら慰めてくれているらしい。
コーヒーは冷たくもなく、暖かくもなかった。
待たれていた訳じゃない気がして、それに何だかほっとした。
多分、たまたまだけど。
4ヶ月前の、熊本地震の時にはかなり大騒ぎしたはずだけど、店の入るビルは、外から見上げるぶんには特に変化はない。
タイルだけを一部新しくして、継ぎはぎになった階段を、何時ものように3階まで上がる。
僕がラッキーだったのは、店の内装を気に入ってくれていた業界の先輩が、居抜きで次をやってくれる事だ。
「さすが多久島さんのデザイン。なあなあ、もし店やめたくなったら言えよ。居抜きで買うから。」
縁起でもないと笑っていた馬鹿話が、まさか本当になる未来は予想外だった。
店のドアは若干軋み、素直には開かない。
それすらも店舗の特徴になるのが、3年と言う時間だ。
「このドア開けるのにちょっとコツがいるんだよな。」
と、入り口で既に常連感を出せる。
ドアを強く、引く。
中から微かに煙草とアルコール、そして油の匂いがした。
どの匂いも、時間が経って乾いている。
暗闇の中、左手は一発で正確に、照明のスイッチを押した。
左右に並んだふたつのカウンター席が、明かりに照らされて姿を現した。
一番手前の席は、カメラマンの常連さんの指定席で、あまりにいつも居るから、遠慮して誰も座らなくなった。
最高記録は28日連続来店。
29日目に僕が風邪を引いて休んだので、勝ったと言ってたのを思い出して笑ってしまう。
何の勝負だよ。
そのとなりは、広告デザイナーの2人組が良く座っていた。
必ず一緒にやってきて、仕事の話でいつも揉めていた。
でも、どんなに言い合いしても、一緒に帰っていったし、次も連れ立ってやってくる。
この辺の関係性は、最後まで結局よく分からなかった。
そのとなり、メインカウンターの真ん中は、特に誰の席とは決まってはいない。
ただ、僕がその前にいることが多かったから、何となくひとりのお客様が多かった気がする。
何かを話したい、ひとりのお客様。
ちなみに深夜に酔っぱらってやってくる、多久島さんの指定席でもある。
「お前の酒は濃い。もう少し薄く作れよな、酔っ払いなんだからこっちは。」
と言う、いつもの台詞が聞こえてきそうだ。
地震で倒れたバックバーも、落ちて割れた鏡も、今は補修して元通りになっている。
僕はカウンターの真ん中の席を引き、微かな埃を払い、そこに座る。
途中のコンビニで買ってきた缶ビールは、もう温くなっていたが仕方がない。
バックバーにも冷蔵庫にも、酒は並んでいない。
ほんの少し前まで、酒場だった空気だけを少し残して、そこには一番大事なものがもう無い。
ビルに入る他のテナントは、殆どが深夜帯の店だったから、この時間は全体が静かだ。
時折外を走る車の音がするのは、配達の酒屋か氷屋だろう。
弟が経営する地元の会社に誘われたのは、地震で店が傾くよりずっと前だった。
「そのうち落ち着いて、誰か人にここを任せられるようになったらな。」
と言う答えは、ただのその場しのぎか相づちで、真剣に考えたことはない。
未来はいつだって、予告も不在連絡票も無しにやって来ることを、忘れていたわけじゃないのに。
やったことのない仕事に移る不安は、今は感じない。
多分違うことで感情がぱんぱんに膨らんでいて、それ以外が入る余裕がない。
カウンターの一番奥の席は、目の前が厨房だったから、油避けにイラストのボードを置いていた。
目の前にそんな衝立があるから、人気はなかったけれど、何度かそこで突っ伏して泣いてるお客もいた。
たかだか、7席のカウンターにもそれぞれの席に特徴や役割はあるという事だろう。
さて、と、わざと声に出して言う。
ぬるい缶ビールは、とっくに飲み干している。
これから何度も思い出すであろう店内を、もう一度だけ見渡す。
狭い店のどの場所にも、多分僕しか知らない思い出が、まだたくさんあった。
今すぐじゃなくてもいい。
ひとつずつそれらは、ゆっくりと思い出されるのだろう。
その時に、出来れば笑おうと思う。
出口のドアを真正面に見ながら、右手は一発で、照明のスイッチを押し消した。
軋むドアを膝で閉め、最後の鍵を回す。
外の通りには、名残のようにまだ夕日が射している。
この通りを、僕は1000日歩いたんだ。
向き直り、来た時と同じ様にビルを見上げる。
古びたビルは古びたまんま、昔から変わらない。
変わったのはやっぱり僕なのだろう。
ありがとうございました。
首筋を陽に焼かれながら、僕はしばらくビルに頭を下げていた。
その後ろを、いつものように氷屋の軽トラがゆっくりと通り過ぎる。
僕が氷を切ることは、たぶんもう無い。
そんな大事なことに、今さらふと気付いた。
歩き出す。一歩目を踏み出すのを、さすがにちょっとためらった。