ドラッグストア・クロニクル
【チェルシー・ドラッグ・ストア】
初めに言いますが、以下の文章は僕が20年以上前、あるbarで聞いていたく感動し、それからずっと信じていた話が元になってます。
色々を簡単に調べられる時代になり、間違いや勘違いはもう認識してますが、これが今だに僕なりの本当なんです。
結局このエピソード1本で、僕はバーテンダーになり今日に至ります。
という流れをお含み頂いた上、お読みいただければ幸いです。
今を去ること何年前かは知りませんが、とあるアメリカの田舎町。
チェルシーさんという未亡人が営む小さな町の薬局。
常勤の医者などいない田舎町の薬店は、地域に愛され頼られて数十年の歴史を住民と共に歩みます。
連れ合いに先立たれ、孫達も立派に独立した後、チェルシーさんは薬局を静かに閉めます。
それから、数年。
この街に一人の若者がやって来ます。
彼の名前は膨大な時間に流され、今となっては残念ながらわかりません。
都会でバーテンダーをしていたこの青年。
郊外に自分の店を持つことが将来の夢でした。
方々土地を探し回り、一番気に入ったこの街に店を出すことを決心します。
しかし、初めてやって来た街。
知り合いなど勿論いませんし、所持金も潤沢とは言えません。
不安を背負いながらも、街に一件しかない不動産屋で聞くと、バーを出来そうな空き店舗はひとつしかないと。
古い建物だから家賃も安く、街一番の大通り沿いなので立地も悪くはありません。
物件を見た若者は一目で気に入り、早速契約をというところで不動産屋から条件が。
この物件の大家さん、何に使ってもらっても構わないが、家族や街の人達との思い出の残る建物はそのまま使ってほしいと。
それはそのまま、街の人たちの希望でもありました。
古い薬局であった店舗の内部は、ちょっと短いですがカウンターがあり、テーブルを置くスペースもあります。
使われなかったせいで汚れてはいますが、薬棚なんかは少し作り替えれば、そのままバック・バーとして使えそうです。
若者は少しだけ悩みました。
当然ですが、自分の店についてはあれやこれやと思い描いていたものがあったからです。
しかし若者は、結局条件通りに契約をし、数日かけて店をぴかぴかに磨くと、表の看板に板を一枚打ち付けてバーをオープンします。
元々の屋号の頭に【Bar】の文字をつけて。
これが
【Bar Chelsea drug store】
誕生に纏わるお話の全てです。
全てではありますが、お話はまだ終わりません。
時間は流れ、さらにそれから数十年後。
舞台はぐっと飛びまして、九州の田舎町で高校をでたての若者がレストランを開くという夢を持ち、故郷の街を飛び出します。
ほとんど同じ頃。
北海道の外れの街で、同じ年頃の若者が同じ夢を抱いて日本を南下し始めます。
九州の若者は本州に渡り、中国地方を通って関東へ。その間に、レストラン、ホテル、バー、スキー場、パチンコ屋。
ありとあらゆる仕事をしながら開店資金を貯めていきます。
同じ様に、北海道の若者も本州に渡り、慣れた寒さから逃れるように南を目指し、開店準備のため腕を磨き続けます。
運命でもなんでもなく、二人が長野県のスキー場で出会ったのは、ひとえに時給の良さと寮完備という好条件のためでした。
六畳一間の相部屋で、お互いの境遇と目標の一致に驚いた二人は、いつしか二人で店を出すことに決めました。
レストランをやりたかった九州の若者は言いました。
『俺達は二人とも調理師として働いた店が多い。小さな店に、料理人が二人もいれば安心だ。』
いいや、と遮って北海道の若者が言います。
『オレはバーをやりたいんだ。食事も出すレストラン・バーを。憧れている店がある。その為に今まで修行してきた。』
そして、北海道の飲み屋で知り合ったアメリカ人の年寄りから聞いた、薬局をそのまま使ったバーの話をします。
それは、北海道の若者の長い旅を支えた物語でもありました。
酔って意気投合した老アメリカ人は、その小さなバーがいかに地元の人に愛された素晴らしい店だったかを、素性も知らない日本人の若者に語り、最後にこう言いました。
『今はもう引退してしまったんだ。私には子供がいなかったからね。結局後を継ぐ者がいなかったのと、立ち退きで店はなくなってしまった。それでもアメリカのウチには看板だけは取ってあるんだ。私が打ち付けた板切れもそのままにね。』
話を聞いた九州の若者は、若者特有の素直さでいとも簡単に感動し、二人はレストラン・バーを出すことにします。
場所は二人の故郷のどちらか。
多分じゃんけんか何かで決めたんだと思いますが、それからしばらくして二人は貯めたお金と希望を抱いて九州の端の街へと向かいます。
さらにさらに、数年後。
大学に入ったばかりの一人の若者が、長崎の繁華街を外れた場所にある小さな雑居ビルの前に立ちます。
その日は若者の二十歳の誕生日。
出来たばかりの大学の友人や従兄弟たちが、誕生祝いのパーティーを開いてくれると言うのを断り、はたから見ると気の毒なような可笑しいくらいの固い表情でビルの二階にかかった看板を見上げます。
有名なブルースの曲からとったバーの名前は、日本語に訳すと【旅人】
二十歳になった日に、一人でバーに行こうと決めていた熊本出身の若者は、階段を上がり、真っ黒な鉄の扉の前で何度も深く息をついてから、かねてから決めていたとおり肩で扉を押し開けます。
薄暗い店内には大音量のブルースがかかり、カウンターの中には大柄な髭の男と、色白でアロハシャツを着たリーゼントの男が立っています。
強面の二人のバーテンダーに、わかりやすく怯みつつ、それでもあごを上げ声を裏返しながら若者は言いました。
『ジンライムをください。ジンはタンカレーで。』
無言で頷いた二人が、容貌からすると意外なほどスマートにカクテルを作っている間、若者は誰か知らない外国人の歌を黙って聞いていました。
まさか、自分がそこで働くことになるとは、全く思いもせずに。
さ、て。
長い話もようやく終わりです。
ジンライムの若者は、それからバーテンダーになり、後に独立し、色々ありましたが今は田舎の町で絵を描いたり、お弁当を作ったりしてるそうです。
バーカウンターへいまだ片想いしながら。
【旅人】の二人も聞いた話では同じ場所で店を続けています。
【Bar Chelsea drug store】の店主はさすがにもう亡くなっているでしょう。
【チェルシー・ドラッグ・ストア】にまつわるクロニクル。
今度こそお話は終わりです。
た、だ。
チェルシーの薬局がバーに繋がったように。
それが二人の若い旅人を引き合わせたように。
そして、全ての生きている者と、死んでしまった者の想いが今も旅を続けているように。
多分お話は続いていくのです。
僕らがよく知る場所で。
今日も。