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批判の正体

善と悪は対義語だっていう考えが人を傷つけるんじゃないか?

良い悪いは個人レベルで感じるものではあるけど

「売れてます!!」「大人気!!」

とかに人は引っ張られるものだし逆もまた然りなわけだから少なからず言葉というものには影響をうける。

ネガティブの伝染力が高かったり、視聴率がとれるなんて話があるんだから尚更影響をうけるというわけだ。

良いと悪いは対義語であってそれは変わりようのない事実なんだけど、そうではない考え方をしていきたいし、これは義務レベルに強要したい気持ちでいっぱいだ。

名称未設定のアートワーク

頭の中で良い悪いが対義語の関係であると、図の通りになっちゃう。

良い悪いの図

まったくの別物で考えると良いとこも悪いとこも考えることが出来るようになる。
もちろんこの状態でも悪い100で良いが0のことだってある。
悪いが100でも新たな良いが増える可能性はこっちの方があって、柔軟になれる。

批判を理解すれば傷つく人が減る

「お前が嫌いだ」「◯ね」「◯◯はおかしいと思う」「私だったら関わりたくないな」「性格悪そう」「クズ」「あなたの言っていることはおかしい」「それはないでしょ」
何が原因でこのような相手を否定するような言葉になってしまうのだろうか?

嫉妬からとかよく言われるから嫉妬もあるだろう、単純に私の中の正義に反するってのもあるし、どちらかといえばそっちの方が多くて誹謗中傷を受けた人に対する慰めのワードとして嫉妬って言葉が上がりやすいんだと思う。
慰められる方も、嫉妬されてるんだよって言葉に理解はするけどピンとこないんじゃないか。

【批判的な伝え方をする人】のしょぼさ、生きていく上で損しかないこと、たまに為になることはあったとしても関わる時間が無駄、それらを理解したら自分はそういうことをしないし、叩かれた時に相手にすべき人間も分かる。

それは一体どういうことなのか?ということを読みながら一緒に想像してみて頂けたらなーなんて思いながらかく!


「自分自身が、今この一瞬、その対象の物事において、物事の前後、裏表、関係なく不快だと感じた」

これが批判する人が伝えている内容の基礎

「あなたは私にとっては悪である」
「お前は悪者だ」
と伝えているだけで相手も周りも存在しない自分本位な言葉をぶつけてくる

表現の自由がある…

でも、しかし、だとすると

その人が感じた不快の原因になる物事だって表現の自由から生まれたものだ。

お互い様ね。
「馬鹿って言った方が馬鹿なんだよー」みたいな

結果、何を求めているのか?

見なくて済むなら見なければいいんだけど、それも難しいみたいで・・・

不快なものを避ける方法はいくらでもあるのにわざわざ「私不快です」と相手に伝えるだけには収まらず拡散までされてしまう。

ネガティブの伝染力のほうが高い。

「私に不快な思いをさせたんだからお前はもっと苦しめよ」って、自分が感じた不快以上に苦しめということなのか?

レベルで言ったら子供が尿意を催して「ママおしっこー」と言っているのと変わらない。

だから何?ってことを人にわざわざ伝えてるということなんだけど、その理解はきっと出来ないんだと思う。

まだママおしっこーには対応が出来るし、それは”身内”ならではの話。

「ねぇそこのお方、おしっこしたいから、この不快を晴らすためにトイレに連れてってください」
ただこれも主語は自分自身であって”身内”だから成り立つわけなんだけど、伝えたいことがもしあるのなら、これぐらい言えるだろ大人ならっていうのが正直なところ。

それすら出来ない人が大勢いるわけで、だからその個人、集団のネガティブが実際に人を傷つける。

結果的に、批判的な言葉を扱う人が求めるものには2つのタイプがある
批判の対象に対して自分自身の正義に共感をさせたい
周囲にも批判をみせて共感した者同士で対象を攻撃をしたい

前者はほぼ不可能、後者は頻繁に起こすことが可能

いずれにしても気持ちを言い放ってすっきりしているんだろうか?
気に食わないことに対してのアプローチ方法としては誤りだと思う。

「私は傷ついた!!あなたの考え方がおかしいから」
 ↓
相手も傷つく

私が傷つけられたことが悪で私の正義に反するという理屈でいくならば、あなたも人を傷つけているのだからあなたも悪だよねって話で

これが批判の正体

名称未設定のアートワーク批判野郎が現れた

批判してくる奴は”自覚なき敵キャラ”なわけだ。

不快をどうしたら不快じゃなくなるか、更に自分のことだけではなく相手にとっても、それを目にする周囲にとっても、良い影響のある案を相手に示せないなら、自身の中の正義が相手にとっては悪となる。

「〇〇が嫌でした、嫌な思いをした」「〇〇なんて考えられない」「〇〇はダメだと思う」「そんなのあり得ないだろ」
どのような状況においてもここまでしか思い浮かばないなら、それを言われた相手も不快にさせる可能性は極めて高いわけだから、善意からきたものだとしてもそれは相手にとって悪になる。
だから善が悪となり、善と悪は対義語ではなく隣り合わせの言葉で隣語(リンゴ)なんだと叫びたい。

その叫びが届いた人は、今後批判を浴びたとしてもそれは、僕たち私たちの正義はこうなんだー!と思ってるー!
っていうくだらない”自覚なき敵キャラ”のつぶやきだと感じ取ることが出来て、正義の反対は悪だからお前は悪な!って言われてるような感覚に陥ってしまって凹むこともなくなる。

そういう考え方をする人もいるんだーなんていうことも思わなくてもいい。

議論出来る相手と対峙したときのために、余計な情報はシャットアウトで良い。

ここまで読んで頂けたとして、自分ももしかしたら敵キャラになってしまっていたかも!?
そんなことが目的じゃない!!
って思う人がいるかも知れない

友人、知人とかなら別に気兼ねなくで良いと思う。
「私が不快だと感じた気持ちを受け取って!」とか全然ありだと思う。

問題なのは見ず知らずの人に対して、それをやっちゃうこと

”自覚なき敵キャラ”の批判にはゴールがない。
伝え方のバリエーションがなさすぎて、もし目的があったとしても叶うわけがない。

逆に”自覚ある敵キャラ”の場合も存在する。
でもそう言った人は大抵優しい。
優秀な人が出来る超高等技術なんだと思う。

そんなの自分もそうだけど凡人には無理。

家とか友達にぐちぐち言ってすっこんでるべきなんだ。

それでも伝えたい場合はゴールを考えて相手とやりとりすれば良い

しっかり前後、裏表を一応調べてゴールにむけた伝え方をすれば良い。
【否定的ではない伝え方】をした方がよっぽど有効だ。

嫉妬してるなら単純に「すごい、すごすぎて嫉妬しちゃいます!」
こんな感じだったら嫌味はないし、相手も傷つけない。
更に自分もそうなりたいというメッセージが互いに伝わる。言霊的なことでいえば自身の成長にも繋がる優しい伝え方だ。

相手に考えを改めて貰いたいんだったら、TwitterとかSNSの場合DMとかで私はこう考えるんだけど、あなたは私の考えに対してどう思いますか?
って聞くとか
または私の周りはこう言うんだけど、とか架空の人のせいにして、相手寄りの立場で意見を引き出したりすればいい。

そう言ったひと工夫が出来ないんだったらやっぱりすっこんでるべきなんだろうな。

それでも尚、批判を行いたい人はしたら良いと思う。

それこそ表現の自由があるんだから。

ただ、基本的には「批判=出来損ないのひけらかし」

だということをする側もされる側も抑えておけば良い!

って批判的な言葉を扱う人を批判してみた。。。


以上!!


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