閑院宮

現在の天皇家は分家にすぎない

そう、私が主張して異議を唱える人間もいるだろうがこれは事実以外の何者でもない
そもそも1428年の皇統断絶以来伏見宮は北朝の筆頭として600年間皇室を支えてきた。しかし、今その正当性を疑う。連中やいかにも閑院宮の分家が正統であるだなどと言う狂った論調が展開されている
そもそも光格天皇の出自は以下のようなものである
父は閑院宮典仁親王東山天皇の皇孫)。母は大江磐代鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。東山天皇は曽祖父、桃園天皇(先代、後桃園天皇の父)と後桜町天皇(先代、後桃園天皇の伯母)は再従姉弟にあたる。践祚前の安永8年11月8日1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される
もとは伏見の血の分家から1428年後花園が出た、誕生の翌年、聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、聖護院に入寺。将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった。つまり完全に出家前提の王子がたまたま皇位についただけのものである。
有力皇位継承候補の後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人

嘉禰宮は母は名門松木宗美の娘。倉吉の医者がなんだ。伏見宮貞敬親王が即位していれば皇統断絶はなかった。



北朝崇光流皇位継承計画 失敗 (1779)時の伏見宮貞敬親王の様子


いまこそ小室に屈した女やランボルの嫁によって悠仁親王は地獄を見ている。
崇光流北朝正統伏見宮復活のため長九郎デマを流し偽家系図をネットの上にばらまく人は気を付けようね、

吉報
父方を皇別摂家、母方旧宮家の方が自ら立ち上がってくれた。この国にも救いはあった。
全世界私に賭けろよ。

伏見宮と皇別摂家復活を願う

お別れにわれらの推し久邇宮朝彦親王の画像を載せましょう。

1824-1891


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