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'24花巻旅行記

大人のってつけるとなんでも卑猥な感じになってしまうのなんでだろう。そう感じるということ自体大人になってしまったということなのだろうか。
そんなことはどうでもいいのだ。今日は今年の8月の旅行について書こうと思う。
8月家族旅行に出かけた。ここでの家族というのはわたしと夫、わたしの母と父、妹だ。わたしの家族は決して計画性があるとはいえないので、2週間前ほどに、決まり、花巻温泉に出かけた。滑り込み入店の我々を寛大に受け入れてくれた蕎麦は美味しかった。旅館は3つの旅館が繋がっていてそれぞれの湯めぐりができるというものだった。薔薇風呂は想像より控えめだったけれど、それでも非日常を味わえた。夜ご飯は蟹の食べ放題。地元の温泉でも蟹の食べ放題の旅館に泊まったことがあるけれど、足はガリガリで、一回とってきたカニを食べ終えた頃にはもう蟹はなくなってしまっていて、食べ放題の概念を問うようなものだった。そんなところと比べては失礼なほど、カニは豊満の足を投げ出していて食べても食べても、次から次へと運ばれてきた。蟹の足だけでなく蟹鍋や、蟹の炊き込みご飯も食べ放題で言い過ぎと思われてしまうかもしれないけど決して盛らない言葉で言うといわゆる、一年分の蟹を食べた。夜ご飯をそそくさとそれでも時間いっぱいいっぱい食べると酒を飲まない夫の運転で童話の森のライトアップを見に出かけた。あれが無料とは信じられないほど幻想的な世界が広がっていた。なんとコスパの良い夢の国だろうか。2日目は早起きして風呂をめぐり、南三陸の、震災遺構を見て気仙沼シャーク博物館を見て帰った。
話は変わるが、わたしは中学生の頃実家を出た。実家は小さなアパートで2部屋しかない、ご飯を食べる部屋と家族4人で寝る部屋しかないのだ。その上父と母は片付けができない。子供のわたしができたらいいのだが、その2人から生まれたわたしも片付けができない。だから祖母に直談判して中学生になる1日前に家を出て祖母の家に移り住んだ。そして大学は近隣の県だったので一人暮らしを始めた。そして社会人になって1年だけという約束で祖母宅で生活をし、今の夫と出会い、同棲を開始した。中学生のときから今までホームシックになったことなど無かったのに、この旅行の終わり、別れ際にとんでもなく寂しい気持ちになって、今生の別れかとでもいうように泣いた。夫が同情して別れたあともしばらく父の運転する車のあとを何台か挟んでついて行ってくれたほどだ。この日記の写真もその時の悲しい、どこか寂しい気持ちを閉じ込めておきたくて夫の運転する車の助手席で撮影した帰り道だ。父は我慢のきかないひとだ。お腹が空くと怒るし、お目当てのお店が混んでいると怒る。妹がインフルエンザで寝ている父の足元で吐くと怒る。心配なんてすっ飛ばして、顔をまっかにして怒ってなんなら、蹴った。妹が幼稚園で毛じらみを移されてくると怒る。今なら何に対しての怒りなんだろう、怒っても仕方ないのにと冷静に考えられるけど、幼い私はいつ怒るかわからない父を怯えた顔して見つめていたと思う。旅行に行く少し前に父が健康診断に引っかかったと母が話していた。精密検査をして旅行の2日後が精密検査の結果がわかる日だった。だけど、わたしはその旅行のときに、すでに多分悪いものだとわかっていた。それはわたしの20年来の医者になった友人(※以下医者)に何気なく父が入院して検査していることを言ったら、その検査をするってことは高確率で悪いものだと思うと教えてくれたのだ。結果、やはりそれは悪いものだった。ここまでは想定内だった。だから比較的予後のいい箇所のそれを受け止める余裕があった。だから旅行の最中も、結果聞いたあとの旅行だったら良かったのにと話す父に「それは悪いものだから聞いたらきっと落ち込んでこんなに楽しい旅行ではなかったよ」と冗談まじりに言えたのだ。父も「やめてよお~」って笑ってた。しかし実際はステージ4で末期では無いが手術は出来ないもの。そんな時に思い出す父は、怒鳴ったり、暴力を振るう真っ赤な顔の父ではなく、仕事で中国へ行くことと1000キロ離れたら中国地方に行くことのどちらかを選べと提案されて中国地方の単身赴任を選び、毎週末1日もいれない我が家に顔を出してくれたスーツ姿、母が休みに疲れて寝ていると釣り堀や、海に連れて行ってくれたハンドルを握る姿、コンビニに自分のタバコを買いに行くと必ず私たちにアイスを買ってきてくれた姿、眠る前「なぜ雲は白いの?」等なぜなぜと聞くわたしに、誤魔化さずにわかりやすい言葉で全て理科的に答えてくれた父の真剣な眼差しだった。子供の頃の恐怖のシンボルはわたしの中でシュンっと小さく縮んでしまった夏だった。

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