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久しぶりに手書きの日記に帰ってみたら、書くことが好きじゃないと気づいた。

久しぶりに手書きの日記を書いた。

小学生の頃からサッカーノートとして始まり、
中学からは思春期の日常を書き、
高校〜大学時代になってもぽつぽつと書き続け、
社会人になっても書いて、
結婚して、子供産まれてからも書いてきた。
毎日じゃなくても、書きたいと思った時に。
毎日書いてた時期もあれば、
半年書かない時期もあった。
それでも小学生の頃から、30歳過ぎて子供が産まれた現在まで何だかんだ続いている習慣だ。

久しぶりの手書きの日記を開いたのは、
気持ちが不安定だったから。
なぜかnoteではなく手書きに帰りたくなった。
手書きのノートに不安を閉じ込めてやろうと思った。

ここ1週間インフルで休養していた。
私から仕事がなくなった。(感染対策で出勤停止)
家族は居なくなった。(妻と息子は実家へ避難)
体調不良も相まってかすごく不安定になった。
普段は忙しい毎日のなかで、
1人の時間を渇望してたはずなのに、
いざ独りになるとたまらなく孤独。

そして昨晩から家族は帰ってきて、
明日からは職場復帰。
今度は強烈な不安が襲ってきた。
「この先家族として大丈夫なのだろうか。」
「この先仕事は上手くやっていけるのか。」
1週間で人としてだいぶ脆くなってしまった。

手書きのノートは居心地が良かった。
noteに記録を残すのも好きだが、
自分の原点は、手書きのノートだ。
綺麗な字で書いてる日もあれば、
グチャグチャに書き殴ったような日もある。
そんなノートだ。
ちなみに今日のノートは、
とてもか細い字が段々と力強くなっていくノートに変わった。

noteを始めて1ヶ月以上たった。
正直noteを始めた当初と比べれば、
書くことが少し辛くなった。
書くことが好きなのか、
SNSの場で評価されること
を望んでいるだけなのかわからなくなってきた。

「たった1ヶ月で大袈裟な。」
「気に病むほど人に読まれている訳でもない。」
なんて自分でも思うところだけど、
自分にとって書くことはそれだけ特別な存在なんだと思う。

でも手書きのノートに戻ってはっきりした。
僕は書くことが「好き」なんじゃない。
書いてしまう人。なんだ。
技術がなくても、ただの自分語りになってしまっても、評価を受けられなくても、どこにも繋がっていなくても、最終的には書いてしまう。

小学生の頃からそれなりに大人になるまでの、
長い歳月がそれを証明してくれている。
ただのサッカーの日記が、
思春期のモヤモヤを書き始め、
青春と呼びたかったはずの毎日を綴り、
自由と周りの比較におろおろした大学時代、
向上心と恐怖心に満ちた社会人時代、
激動の結婚〜妊娠、出産。
窮屈だけどかけがえのない家族3人での生活。
誰に望まれるでもなく書いてきた。
書きたかったというより、知らぬ間に書いてた。

書くことが別に好きじゃなくてもいい。
評価されることを望んでもいいし遮断してもいい。
書くことにそんなに意味をつけなくてもいいんじゃないかな。そんなに価値をつけなくてもいいんじゃないかな。無理矢理ひとの役に立たなくたってもいいんじゃないかな。

もう何代目かわからない手書きの日記
ずっと変わらないB5のCampus
ボールペンやシャーペンじゃなく鉛筆派

意味ある、価値ある、役に立つ。
そんなことを書きたいと思う日もありますが、
今日は気の向くままに。

技術を磨け。人間を磨け。
上を目指せば誰だって味方だ。

将来を蔑ろにせず、
今現在笑えることを優先する。

力強くなった自分の手書きノートから引用

手書きノートとnoteの使いわけはありますか?

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